「ただ生きているだけ」に満足できる

家事か地獄か 最期まですっくと生き抜く唯一の選択

 自分の暮らしが自分の手に負えるようになった、という言葉が印象に残りました。

 

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 何しろ私、自慢じゃないが筋金入りの洋服バカ。服を買いまくりたいために働いてきた女といってもいい。さらには、会社員時代は年功序列という昭和なシステムのおかげで引っ越すたびに収納たっぷりの家へと住み替えてきたので断捨離など考えたこともなし。際限なく服をため込みウッシッシと生きてきた。そんなヤカラでも、追い詰められれば「9割減」という偉業を達成することができたのである。つまりは誰だって「やればできる」のだ。

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 ・・・まずは何よりも、捨てた先の私に一体何が起きたのか、人生どうなっちゃったのかをお知らせせねばなるまい。

 結果を一言でいえば、これもまあ驚いたことに「どうってことなかった」のである。私が人生でずっと大事にしてきたこと、つまりはおしゃれが大好きで、どんな日も最高の服で過ごしたいということにおいては一切の変更なく今に至る。

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 これが一体どういうことかと言いますと、これは案外知られているようで全く知られていない事実で、私もいざ自分がそうなってみるまで全く知らなかったんだが、その人がおしゃれかどうかは、その人が持っている服の数とは何の関係もなかったらしいのである!

 ……いやー、びっくり。私はずっと、おしゃれな人とは服をたくさん持っている人のことだと思っていた。でもよくよく考えてみりゃ確かに、んなわけないんである。 

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 改めて考える。我らはなぜこれほど買い物をしまくらずにいられないのだろう。次々と新しい服やら便利グッズやらを、膨大な時間とお金をかけて手に入れ続ける人生。それは全て、ここではないどこか、今じゃない未来に楽園があると信じ続けているからこその行動だ。この行動パターンには決して終わりがない。なので、我らの人生は常に「時間がない」のである。・・・

 でももし、ここで良いのだ、自分は自分で良いのだ、自分はすでに全てを手に入れているのだと思うことができたなら。

 それだけで、人生は間違いなく一変する。有り余る時間とエネルギーを使って、本当にやりたいことをどこまでもすることができる。

 なのでその第一歩を踏み出すか踏み出さないかは、人生において真に決定的な出来事なのではないでしょうか。

 で、踏み出すためにはどうしたらいい?私が熱くお勧めするのは、まずは服を9割減らすことである。服を減らすことは、自分を見つけること。欠点も美点もある自分をまるごと認めて、その自分を自分で愛し生かしてあげること。それができれば、あなたはもう何も探さなくていい。ここではないどこかではなく、今ここを存分に楽しめば良いのである。

 

P243

 これまでも縷々書いてきたように、私にとって、自分が幸せになるためにせっせと手に入れた身の回りのモノたちを思い切って手放すことは、全て、自分の中にある「幸せになれる力」を見つける行為であった。

 掃除道具を手放し、服を手放し、調理道具や調味料を手放すことで、自分の暮らしがちゃんと自分の手に負えるようになった。その結果、何はなくともきれいな部屋で、何はなくともおしゃれを楽しみ、何はなくとも美味しいものを食べる力、つまりは何はなくとも幸せに満足して暮らすことのできる力が、全てすでに「自分の中」に備わっているのだと心の底から気づくことができた。

 これを永遠の安心と言わずになんと言おう。

 そう、かのこんまり様も言っておられます。

 部屋の片付けなんてさっさと終わらせたほうがいい。なぜならば片付けは人生の目的じゃない、本当の人生は片付けた後に始まるのだからと。

 私も大いに賛同します。自分らしい人生を心ゆくまで生きるために、まずは余分なモノを捨ててみよう。

 

P252

 認知症になって家事ができなくなり、日々混乱の中を格闘し続けた母が亡くなって7年経ち、今度は一人暮らしになった父が鬱々とし始めた。

 もともと趣味の多い人である。・・・

 ところがコロナで全ての活動が自粛を余儀なくされた頃から、歯車が狂い始めた。

 ・・・ケアマネさんの紹介で通い始めたデイサービスで、歌を皆で歌ったりハンドベルで合奏したりすることを楽しみにしていたのでああよかったとホッとしていたのだが、近頃ではそれにも気が乗らない様子。

 理由を聞くと、「すごく良くしてもらっているけれど、結局はこっちが主体的に何かをするわけじゃない」「何から何まで向こうが準備してくれる。ありがたいけど、それだけだと生きている意味がわからない」という。

 いつも前向きな父の暗い告白に、思わずドキリとする。なるほど・・・会社員を引退してからも趣味に交流に勉強にと「主体的に活躍」することを追求してきた父にとって、老人福祉という「与えられたこと」に生きがいを見出すのは、いざとなってみればどうしようもなく空しいことなのかもしれない。

 父はきっとこう言いたいのだ。

「ただ生きているだけ」の自分に、一体何の意味があるのか?

 ・・・

 私はその時、何を思うのだろう。体も頭も衰えて、もちろん本やコラムも書けなくなり(今だってギリギリです)、となるとこれといって何ができるわけでもなく、相変わらず一人ぼっちで、ヨタヨタして、でもただ死んではいないというだけの存在になった時、日々生きていくことにどんな意味があると私は思うのだろう?

 で、ハッとしたのだった。

 私は「ただ生きているだけ」であっても、自分にできるであろう楽しいこと、やりがいのあることを思い浮かべることができたのだ。

 例えば……。

 いつもの小鍋でご飯を炊くこと。

 残り物のジャガイモと乾燥わかめで味噌汁を作ること。

 汗臭い下着やシャツをタライでじゃぶじゃぶ洗って干すこと。

 絨毯をホウキで掃いてたくさんホコリを集めること。

 ……そう、私には家事があるではないか!

 そうだよ「生きているだけ」と言ったって、実際のところ人はただ「生きているだけ」じゃすまない。誰だって息をしている限りは生活していかなくちゃいけないわけで、家事すなわち炊事洗濯掃除はどう転んだって死ぬ瞬間まで自分あるいは誰かがやらざるをえないのである。

 で、私はその「やらなきゃいけないこと」のいちいちを「楽しい」こととして思い浮かべることができた。

 いずれも社会から評価されるわけでもお金が儲かるわけでもなく、ただやらなきゃならん面倒なだけの作業。でも私は、誰がどう言おうとソレを掛け値なく楽しいと「思える」のだ。私はこのような認識を持つことにまんまと成功した。心の革命を成し遂げたのだ。そして素晴らしいことに、この我が楽しみのタネは、私が生きている限り尽きることはないのである。

 つまりは私はこれから年をとってできないことだらけになっても、いつだって「ただ生きているだけ」に満足できる可能性が高いってことなんじゃないでしょうか?

 いや私……なんか、すごい地点まで来てしまったんじゃなかろうか。