世の中は偶然に満ちている

世の中は偶然に満ちている (単行本)

 私も偶然日記をつけたくなりました。

 

P269

 とにかくふつうの生活時間で偶然の出来事に遭遇すると、

(あれ?)

 と何ごとかを感じてしまうのは事実である。それが何ごとであるかわからぬときはいいのであるが、何ごとかわかるときがあるのだ。わかる気になるというか。

 私の場合でいうと人の死に関わりながらあらわれる偶然である。これは他でも書いたが、石子順造とテントウ虫、土方巽と大蝙蝠、母と玄関の鍵、などの出来事がかなり明解な例としてある。いずれもふだん見かけない現象がそれぞれの死に関わって私の前にあらわれてきた。これはやはり遭遇者としてはそこに不思議を感じざるを得ないわけで、私はそれを死者からのメッセージと受けとめていた。この世の偶然の出来事を介しての、あの世からのメッセージ、と思うと納得がいく。メッセージの内容はというと、それはわからないが、とりあえずは挨拶のようなものだろうと思うのである。

 M氏によると、それはメッセージかもしれないが、特定の死者、あるいは霊というか、とにかく特定のものからの発信というわけではないだろうというのである。

 方向性を考えるなら、あの世界からこの世界へということはあるだろう。だけどそれは発信する側よりも受信する側の問題で、ある偶然をこちらがメッセージとして受け取ったときに、その偶然はあちらからのメッセージとなる、というようなことである。思い込み、というのに似てはいるが、それとは微妙に異なる。常に何ごとかを受信する用意のある心的世界があって、そこでの小さな突起をメッセージとして受け取ったときに、その突起の裏側の世界を知覚する。というようなことなのだろう。

 自然は偶然で満たされている、というのと重なるが、自然は霊で満たされているのかもしれない。

 

P17

 すごく親しくしていた石子順造さんという評論家がいた。・・・

 ・・・

 そういう親しい人が癌になって、亡くなった。・・・でもちょうどお葬式の日に天文同好会のメンバーと観測に行く計画があり、お葬式には行けなかった。で仕方なく喪章を買って、望遠鏡に巻いて観測に行ったりし、まあ、石子さんとの仲はそんなことでも許されるだろうと思って―ここまでは余談。

 そのあと、石子さんの奥さんから葉書が来た。この間お葬式をして、いろいろお世話になりましたと書いてあり、そのあとに「桜子ちゃんへ」とあった。桜子がちょうど四歳ぐらい、石子さんにも四、五歳ぐらいの娘さんがいて、順ちゃんという。「うちの順ちゃんや円ちゃんはお父さんが死んで悲しがってたけど、いまは元気になって、うちの中に虫が入ってくると、あ、お父さんが会いに来たんだと言って歓迎しています」とあった。それまで虫とか、あまり好きじゃなかったらしい。現代っ子はわりとそうだ。それを読んで、ああ、なるほど、なんて思って桜子が帰って来たら読んでやろうと思った。それで、「ほら、桜子、葉書来たぞ」って、うちの順ちゃんたちは家の中に虫が入ってくる……と読んだその「虫」と言ったときに、ポツーンと落ちた。「虫」という字の上に。ほんとうに字の上に落ちた。ハッとして見たら、黒くて右と左に赤い丸がひとつずつ、小っちゃいテントウ虫だった。その瞬間、ちょっと声が出なかった。桜子も四つだけど、ほんとにびっくりしていた。しばらくはボーッとしていたが、「うわあ、偶然だなあ」とか言いながらまたつづきを読んであげる。・・・これはただの偶然なんだろうけど、しかし偶然がいくつか重なっている、ちょっと重なりすぎているという気がする。「虫」と読んだその時に落ちてきたのが虫であるということ、しかも「虫」という字の上に。