この辺りもなんて立派な、と・・・驚いてばかりでした。
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「将来が不安」
そのように思われる方も多いでしょう。
僕のことをお話しすれば、未来のことはわかりませんが、おそらく今と変わりなく感覚過敏の課題解決に取り組んでいると思います。自分がやりたいことだけで十分な収入を得て生活できるかはわかりませんが、それを目指して高校生の今も基盤をつくっています。
といっても、会社の事業がうまくいかない場合もありますし、僕のやりたいことがまったく変わって今とは違うことをしているかもしれません。それでも、おそらくですが、僕は自分の居心地のよい場所を選んで働くでしょう。
たくさんの人が集まるような職場に毎日何時間もいることは僕には苦痛だと思いますので、そのような選択はせず、居心地のよい職場や働き方を探します。探しても見つからないのなら自分でつくるでしょう。
「自分で居場所を選べる人間、つくれる人間はいいよな」と思われるかもしれませんが、実は高校生になってアルバイトをしてみたくて、人生初のアルバイトの面接で僕は落ちました。自分で選んでも相手から選ばれないという現実に直面して絶望的な気持ちになる日もきっとあるはずです。僕も落ち込みましたから。
自分の居場所が見つからず、誰からも選んでもらえない。もしそういう状況になったら、やっぱり僕は起業を選択するように思います。
起業を別世界のことと思っている人は、「起業とか居心地のいい場所をつくるというのは、特別な人だからできるのでしょ?」と思うかもしれませんが、特別なことではないと思います。
感覚過敏がつらくて私立中学を退学してフリースクールに居場所を変えたように、僕は働く場所も居心地が悪いと思うなら変えてしまうでしょう。
不登校という問題を深刻にとらえてしまう人もいると思いますが、集団の学校生活が特性や感受性などに合わないときは、自分の居場所を変えてしまっていいと僕は思っています。
それは逃げでもなければ負けでもありません。むしろ前進です。
自分で仕事の場をつくるということは自分の力で稼ぐことでもありますので、確かに誰もがうまくいくとは言えませんし、起業をすすめたいわけでもありません。
ただ、自分に合う働く場所がないと落ち込む必要はないですし、一般的な職場で働けないからと言って自分が無能だとか思う必要もないことは伝えたいです。世の中がまだ感覚特性にあった環境をつくれていないだけです。
僕はこんな考え方をしますが、ほかの人に同じようにすればいいとすすめたいわけではありません。しかし、お伝えしたいことはあります。それは、
「感覚過敏を理由に今も未来もあきらめないでほしい」ということです。
「今」をあきらめないこと。これは僕の生き方の軸になっています。僕が感覚過敏研究所を立ち上げようと思ったのも、「僕は感覚過敏を理由にあきらめている」と気がついたからです。
感覚過敏だから友だちと遊びにいくのをあきらめる。
感覚過敏だから友だちとレストランに行くのをあきらめる。
感覚過敏で着られる服が少ないからおしゃれをするのをあきらめる。
そうやって、あきらめることが当たり前になっている生活を変えたいと思ったのです。
だから、感覚過敏があることで、学校や就職、友だちづきあいや結婚などを、無意識にあきらめているのなら、あきらめない道を探してほしいと思っています。
必ず、道はあるはずです。
僕は感覚過敏は才能だと思っています。ただ、ある感覚過敏の方に言われたことがあります。
「自分に才能があるなんて夢を持って期待するのがつらいので、感覚過敏は才能だなんて言わないでほしい」と。
そのとき、ポジティブすぎる考えは、時に人を苦しめるのかもしれないと思いました。
それでも僕は、感覚過敏は才能だと思っています。
ただ、この社会においては、感覚過敏であることのつらさが強すぎて才能にすることは難しいとも思います。だからこそ、僕は感覚過敏のつらさを解消するものをつくりたいと、研究開発もがんばっています。
僕は水の味の違いがよくわかります。レストランで出される水が水道水だったら飲めません。ある日、家の水の味がいつもと違うと思ったら、ウォーターサーバーが壊れていたことがありました。
ある人は、いつも食べているカップラーメンの味が違うと思って製造会社に電話したら、なんと後日、その工場のラインに故障箇所が見つかったというエピソードを持っています。
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小さな変化に気がつける敏感さ、それが感覚過敏の才能だと思うのです。「いつもと違う」に敏感なのです。・・・
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僕は、感覚過敏の人がストレスなく服を着られるようにと、縫い目が外側でタグがない服をコンセプトにしたアパレルブランド「KANKAKU FACTORY」と展開しています。
服づくりをして気がついたことが、「生地はロットによって厚みも風合いも違う」ということでした。
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生地づくりのベテランなら触った瞬間に違いがわかるでしょう。実は僕もわかってしまいます。
同じ品番の生地を注文しているのに、前回のものとは違うと感じてしまうのです。品質的には誤差の範囲内だと言われても、僕にはまったく違う生地にしか思えません。
こうして僕はベテランではないとわからないであろう生地の仕上がりの違いがわかります。工場にひとりいるとかなり優秀な品質チェッカーになれると思います。
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鋭敏さとは違うかもしれません。でも違いのわかる人間なのです。モノづくりにおいて最高の能力です。
もちろん、これからAI技術も進化し、同一品質のものをつくり続けることができてしまうかもしれません。その世界で、感覚過敏を才能にして生きていけるのでしょうか?
それは僕にもわかりません。ただ、テクノロジーが進んだ世界では、感覚過敏があるないにかかわらず、人が担当する仕事というのは変わっていくと思います。誰もが進化した社会の中で、「自分の才能とは何か」を自問自答しているかもしれません。
そのような世界では、もはや、才能なんて気にしなくてもいいのかもしれません。
「才能があったほうがいい」という価値観すら幻想かもしれないのです。
才能なんて言葉に踊らされなくても、「あ、この感じいつもと同じで心地いいな」と小さな喜びを感じられること自体がすごいことなのかもしれません。
人は、当たり前に変わらずに存在するものを感じることは少ないのですから。