電話相談は創造行為

いのっちの手紙 (単行本)

 

 いのっちの電話は慈善活動ではなく創造行為だと捉えています、という文章を読みながら、もしも生活全てそのように捉えられたら、すごいなぁ・・・と想像しました。

 

P47

 一二月に長年の疲れもあったのか、やっぱり鬱っぽくなったんですね。・・・僕の中での鬱とは、自宅書斎に布団を敷いて終日寝てて、一歩も外に出ない時の状態をそう呼んでます。でも今回はちょっと違ってました。症状としてはいつもの鬱と変わらないくらい、深い自己否定の波が襲ってきてました。

 まず自動的に否定するモードに入ってます。妻が聞いても、明らかに事実と違うことを言い始めているようです。しかし、僕にはそれがわかりません。いや、わかることはわかるのですが、それでも否定する体の奥底からの力がすごくて、止めることができないんですね。いのっちの電話にかけてくるどんな人よりもその時の否定の力は強いものがあります。何と言っても、多くのいのっちの電話にかけてくる人は、僕が笑いながら「それ、鬱の症状だよ、否定が止まらないのは。でも、あなたにはいいところが一つはあるでしょ」と伝えると、ちゃんと「そうですね」と答えてくれます。そうやって話を変えることができるのですが、僕は僕自身の話の腰を折ることができません。それくらい僕の鬱の時の症状はひどいものがあります。

 それでも僕が書いた「躁鬱大学」というネット上の記事の「鬱の奥義」という項目を読んでみたんです。・・・すると、生まれて初めて自分の原稿を読んで自分自身に効果がありました。・・・真面目に考えすぎ、今反省してもどうせ体調が戻ったらすっかり全て忘れている、そもそもお前はどこの馬の骨かわからない人間なのに、自己否定して苦しむって、何調子に乗っているのか、もっとクオリティなんか気にせず質は問わずにとにかくやりたいように作品作ればいいじゃん、みたいな感じに思えて、少し体が楽になりました。そこで布団からは立ち上がりました。

 躁状態の時は体のエンジンが回ってます。そのエンジンは前向きなエネルギーを激流の川のようにドバドバと流してます。だから、常に行動する、閃く、新しいことを実行してしまうんですね。一方、鬱状態はその逆ですから、後ろ向きなエネルギーが果てしなく襲ってきます。ですが、エンジンの動きとしては躁状態と同じです。だから、ほっとくと、寝込んでしまう、否定的に考える、そして、死にたくなるわけです。ということで、そのエンジンの動きを緩めるために、まったく逆のことをしようと思いつきました。

 寝てたかったので、起きてみました。きついですけど、起きました。そして、一切食欲がないのに、料理をしてチャーハンを食べました。息子が遊ぼうというので、遊べるわけないんだよ父ちゃんは今は、と思いましたけど、遊びました。そして絵なんか何を描いたらいいのかわからなかったんですけど、写真を選んで、それをパステルで模写してみました。そして、また寝てたかったけど、畑に行ってみたんです。

 すると、家の中で誰かに会うのも嫌でした。料理もやっぱりしんどいし、食べたくもありませんでした。子供たちともさすがに鬱の時遊ぶのは退屈を感じすぎて辛かったです。ですが、パステルを描くのは、楽しい、というか、苦しいんだけど、描いている間だけは夢中になってました。描きあげるとまた苦しくなったので、もう一枚描きました。結局三枚描きました。普段ではありえない集中力でした。そして、畑にも行けたんですね。畑で誰かに会うのはしんどいから避けたいけど、一人で入れるならば畑にも行けました。

 僕は知らぬ間に、パステルと畑という鬱状態の時でも、実践できる行動を見つけていたようです。そして、だからこそ、昨年は一度も鬱にならなかったみたいです。というわけで、・・・結局は一度も寝込まず、三日で元気になりました。・・・

 さて、話は変わって環さんからの質問に答えていくことにします。

 まずは「傾聴」についてですね。傾聴は僕の苦手な行為です。・・・退屈なんだと思います。・・・僕は基本的に誰の話もうまく聞けません。でも・・・僕は、その人をよくすることを考える、ということに関してはおそらく誰よりも頭が回るんだと思います。で、いのっちの電話ではその力を発揮しているのではないかと考えてます。

 だからそもそも対話ではない可能性もあります。僕が知りたいのは、その人の辛かった話というよりも、その人の体質とか特性とか長所です。なぜなら、これまでいのっちの電話をずっと聞いてきましたが、苦しい人たちの悩みや嘆きには、実は個性がなく、一〇種類くらいのパターンしかありませんでした。もちろん、これは僕の経験で感じたことに過ぎないのですが。・・・不思議なことに、同じ悩み、嘆き、苦しみの人は、同じ声色をしてました。だから、それ以上は聞かないと言っているつもりもなく、僕はその話は「知っている」つもりなんです。

 そして、さらに不思議だったのは、苦しいと言っている時の声色は、悩みのパターンが似ていると、ほぼ同じなんですが、僕がすぐに話を変え、自己否定しまくっている相談者たちをかいくぐって、懐に入り込んで、何が好きなの、何が得意だったの?小さい時にもうずっとこれをやれたらいのにって思えたことはない?なんてことを聞いて、それを答えてくれた時の声は、悩みの声とはまったく違っていました。悩み方はパターン化されてますが、喜びにはパターンはありませんでした。そして、その話をした瞬間、僕はじーっと聞くんです。たくさん質問して、どんどん聞き始めます。もう僕も楽しくなってきます。僕の知りたい欲望が発動してます。彼らは事細かく教えてくれます。そして、二人で時を忘れます。

 そして、気付いた時に僕は質問するんです。

「今、死にたい?」

 すると「あ、少し忘れてました」と照れ笑いするんですね。僕がパステルを描いた時の感覚です。おそらく電話を切ってしばらくすると、また忘れて悩み始めると思うんです。でもその時はすぐにまた電話してこの話をしようって伝えるんです。友達なんかいなくていい、仕事もできなくていい、お金もなくていい、でも楽しいことは忘れたら退屈だし、それをやったら楽しいし、それを継続したら、道になっていくねえと伝えます。・・・

 ・・・

「恭平さんの活動には、そういう美談っぽいところが全然ない。そこに大きな可能性を感じます。・・・恭平さんは、ずっと電話相談を「フィールドワーク」と言っている。つまり相談の経験を自分の糧としているわけですよね。だから、楽しんでやっているようにすらみえることもある。これは考えようによっては、お金以上の「見返り」があるからこそ一〇年間も続けてこられたのでしょう」

 これはまさにそうなんです。・・・僕はスター誕生の番組を見ているような気持ちですらあるのかもしれません。・・・悩みや嘆きを聞いても、何とも感じないんです。その人のその後の未来にしか興味がないのかもしれません。その人が何をして生きていくのかってことに注目してますし、そこしか見てないのかもしれません。それくらい、僕はその人の才能を見出すのが好きだし、見出している自分のことも好きなんだと思います。・・・

 ・・・

 ・・・何よりも僕にとっていのっちの電話は慈善活動なのではなく、それ自体が創造行為だと捉えています。古代ギリシアでは弁護や自己への配慮などが一つの技術として確立しているのを知って、近代以前、それこそ古代には当然の技術だったのではないかと、フーコーの後期講義を読みながら、納得したところです。・・・

 

 

 ところでちょっと2日ほどブログをお休みします。

 いつも見てくださってありがとうございます(*^^*)