SF小説のように

ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)

 そんな風にイメージしてみることもできるんだと驚きました。

 

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 私は視覚と聴覚の二つの障害を持っています。・・・これは一種の「戦場」にいるようなものだと思っています。・・・

 それが読書にも反映しているようで、・・・困難な状況の中で何かと闘うという設定の話に非常に関心を持つようになりました。・・・

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 小松左京のSFで、「夜が明けたら」という短編があります。これは地球があるときから自転をしなくなるという状況を想定して書かれた作品です。また、海外のSF作品では、ちょうど地球に対する月と同じように、地球が太陽に対してずっと同じ面を向けて公転するようになるという話があります。・・・この他、沈没船の中に取り残された何人かの男女が、創意工夫と忍耐と努力で、海底の閉鎖された空間で生き延び、しかも世代を超えて生存していくという、奇想天外な作品もあります・・・こういう極限状況を想定した話がSFには数多くあって、私が盲ろうという極限状況を生きるうえでの一つの糧になってきました。

 つまり、そういった数ある極限的な状況の可能性の中の一つに、自分がたまたま陥ってしまったと考えることで、どこかで自分の姿を面白がるようなところが私にはあるということです。盲ろう者になってしまった私の状況をSF的に表現すれば、例えば次のようになるでしょうか。

 私は宇宙探検に出かけて事故に遭遇します。無人の未知の惑星に不時着し、宇宙船の中に私は一人取り残されています。そこは今、この未知の惑星における「夜の側」になっているからか、あるいはこの惑星のある恒星系の太陽から遠く離れているためか、周囲には光がなく、真っ暗です。そして、大気もほとんどないので、なんの音もありません。ただ、通信機だけはまがりなりにもなんとか使えるという状況でしょうか。

 通信機が使えるということは、コミュニケーションのチャンネルがあるということであり、食べ物と酸素は十分にある。そういう状況におかれたとき、どうやって地球に戻れるか、どうやって生き延びられるかを考える。そういうロビンソン・クルーソー的な発想をすれば、盲ろうの状態でも、サバイバルしようという勇気が湧いてくるのではないか……。そんなふうに私は考えてみようと思ってきました。

 その『ロビンソン・クルーソー』も忘れ難い小説です。子どものときに読んで、私は心を躍らせました。『十五少年漂流記』もそうした一冊でした。どちらも、限られた条件の中でどうやって生き延びていくかがテーマになっています。そういう状況におかれた人たちのサバイバルストーリーに、不思議と心が躍ります。

 私には小さな頃からそういう面があったのかもしれません。つまり、体がさまざまな制約・制限を受ける中で、どうやって楽しみ、自由を味わうかというような発想がどこかにあったようです。

 例えば、幼い頃、私は目の病気で入院して、手術の関係などで安静をよぎなくされ、あまり動けない状態でベッドに寝かされていたときなど、空想の中で遊ぶことが多かったように思います。『ロビンソン・クルーソー』や『十五少年漂流記』の少年たちと同じように、自分なりに苦しい状況をなんとか打開する術を編み出そうとしていたのでしょう。