欠如を抱き

ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)

 この辺りも印象に残りました。

 

P138

 ・・・いのちのあり方について、深く考えさせられた経験があります。

 一九八三年の春、私は東京都立大学(現・首都大学東京)の人文学部にニ十歳で入学しました。盲ろう者としては日本で初めての大学進学となりました。

 華やかなマスコミ報道。私を支援してくれる市民グループの存在。そして、指点字を用いて、他者の発言や周囲の状況などを伝えてくれる通訳・介助のボランティアのみなさんのサポート……。私の周りは、私を励まし、力づけてくれるものに満ちていました。

 しかし、私の心は不安でいっぱいでした。・・・

 ・・・

 そんなある日、私の心を癒し、周囲の人々との新たな関係性をつくっていくうえでの勇気を与えてくれるような、そんな「出会い」がありました。クラスメートの女子学生が一つの詩を点字に訳して、私に手渡してくれたのです。彼女は、少し前に私がクラスメート対象に行った点字指点字のミニ・講習会に参加したので、点字の練習を兼ねて点訳してきてくれたのでした。

「生命は/自分自身だけでは完結できないように/つくられているらしい」

 この何気ない書き出しで始まる吉野弘の詩「生命は」を一読し、私は何か眩しいものに出会ったような気がしました。

 ・・・

 吉野はこの詩を次のように続けます。

 

「花も/めしべとおしべが揃っているだけでは/不充分で/虫や風が訪れて/めしべとおしべを仲立ちする/生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」

 

「生命は/その中に欠如を抱き/それを他者から満たしてもらうのだ」

 このフレーズに出会ったときに受けた衝撃を、私は今も忘れられません。これはいのちのありよう、いのちといのちの関係性の本質を示した言葉であり、いのちの定義です。

 そして、例えば、障害をいのちが内包する広い意味での欠如の一形態として捉えるとき、この定義は、障害者を取り巻く問題が障害者だけの問題ではなく、障害の有無を超えて、すべての人間、すべてのいのちのありようと深くかかわってくることを示している、と私は感じたのです。

 この詩と出会った頃から、私は徐々に、周囲の学生たちとうちとけていきました。何人かの学生は指点字を覚え、私と直接語り合うようになります。中には、私が受ける講義やゼミの通訳までできるようになった学生もいます。

 そして何よりも、大学進学をきっかけに、私を取り巻く人間関係は飛躍的に広がりました。さまざまな人との出会いが不思議な連鎖をもって生まれ、その後の盲ろう者福祉増進の運動や大学教員という現在の私の仕事へとつながっていきました。

「盲ろう」という一つの「欠如」を抱えた私が、コミュニケーションを媒介に他者と心を通わせるとき、そこに新しい関係性が生まれます。その関係性がある種の「触媒」の働きをし、私が直接・間接に触れ合った多くの人々の間に、目に見えない「内的化学反応」を巻き起こしていった気がします。

 

 生命は    吉野弘

 

 生命は

 自分自身だけでは完結できないように

 つくられているらしい

 花も

 めしべとおしべが揃っているだけでは

 不充分で

 虫や風が訪れて

 めしべとおしべを仲立ちする

 生命は

 その中に欠如を抱き

 それを他者から満たしてもらうのだ

 世界は多分

 他者の総和

 しかし

 互いに

 欠如を満たすなどとは

 知りもせず

 知らされもせず

 ばらまかれている者同士

 無関心でいられる間柄

 ときに

 うとましく思うことさえも許されている間柄

 そのように

 世界がゆるやかに構成されているのは

 なぜ?

 

 花が咲いている

 すぐ近くまで

 虻の姿をした他者が

 光をまとって飛んできている

 

 私も あるとき

 誰かのための虻だったろう

 

 あなたも あるとき

 私のための風だったかもしれない