生きているということは・・・

ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)

 印象に残ったところです。

 

P42

 ・・・私は特定の信仰を持っていたわけではありません。ただ、何ものか、超越者とでもいうべき大いなる存在がいるという想定をしないと、私たちの存在は説明できないだろうとは漠然と考えていました。

 これは「なぜ宇宙があるのか」と問われたときに、今の科学では誰も本質的には説明できないことに似ているかもしれません。最終的には、「説明できない存在が存在する」という一点で、科学と宗教は接続するのではないかと思います。

 とにかく、その当時は「そもそもなんで自分が生きているのかわからない」という気持ちが強かったのですが、少なくとも自分が生きていると、自分が思っていることは確かであり、さらに生きていると言っても自分の力で生きているのではないということは自覚していました。

 宇宙の中で自分が存在しているのは自分の力によってではない―。そう考えると、自分が経験する苦悩も、自分の外部のどこかから「降ってきた」ようなものだと思うことができました。そう思うことによって、その降ってきたものをまず受け止めて、そのうえでどう生きるかが問題なのだろうと意識を転換しました。同時に、おそらくそこにしか自分の生きる道はない、自分の気持ちを落ち着かせ、納得させて生きる方法はそこにしかないだろうと思ったのです。

 

P60

 ところで、宇宙の中の人類の存在にどれだけ意味があるのかという問題を、私が強く意識したのは、神谷美恵子の文章に出会ったときです。神谷さんはもう亡くなりましたが、精神科医ハンセン病患者の医療にも従事した医師です。・・・

 私の心に沁みた文章は次のようなものです。

 

 人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在しているひとも、大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと、他人の眼にもみとめられないようなひとでも、私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙のなかで、人類の生存とはそれほど重大なものであろうか。

 

 もし誰か、ある人に存在の意味がないと考えたら、ではあなた自身にはあるのか、他の人にはあるのかを問う。さらに、そもそも宇宙の中に人類が存在することには意味があるのかと考えたときに、「ない」と考えればある個人の存在にも意味がないし、逆に「ある」と考えればどんな人間にも意味があるのではないかというわけです。

 ・・・私が感じていることと同じことが、より明晰に言語化されて示されていると思いました。

 私たちは他の人と同じであろうとしたり、逆に個性にこだわって、すごく細かなことで他の人との違いを強調したりします。しかし、大きな視点で考えれば、私たちが生きているということ自体が極めて奇跡的なことなのです。

 

P66

 ところで、私たちは、自分らしさとか自分にしかできないこと、あるいはアイデンティティーといったものにとてもこだわります。しかし、これはせいぜい十九世紀以後の発想ではないでしょうか。・・・

 トルストイの『戦争と平和』の主人公の一人ピエールは、・・・捕虜になってしまい、同じく捕虜になっていたプラトン・カタラーエフという、農夫から徴用された老兵士と出会います。

 ・・・

 このカタラーエフの言った科白で、長く私の心に残った言葉があります。それは「石のように眠り、パンのように起きる」という言葉です。これから寝ようというときに、カタラーエフはピエールに、「寝る前に神様にお願いするんだ」と前置きしてから次のように語ります。

 

 「毎日、朝も晩も、横になる時には《神さま、石ころのように寝かして下さい。丸パンみたいに起こして下さい》と言うし、朝起きる際にはかならず、いつも同じように肩をすくめて《寝たらまんまる、起きたらぴんしゃん》と言っていた」

 

 石のようにストーンと寝て、パンのようにふわっと起きる。それが幸せなんだという、農夫の素朴な願いを表した祈りの言葉です。そういう素朴な農民の人生がこの祈りの言葉にはシンボリックに表現されている感じがします。

 この言葉を見つけたとき、私は涙がこぼれました。その人にしかできないこととか、その人らしさといったせせこましい世界ではなく、もっと深く広々とした素朴な生の中で私たちには生きる意味が与えられているのではないかと思ったからです。

 ・・・

 個性の追求はもちろん大事ではありますが、そうした考え方には近現代の社会によってつくり出された価値観が影響している部分がかなりあって、本当は一人ひとりの人間の「自分らしさ」など、さほどたいしたものではないようにも感じるのです。