思考や同一化についてなど

わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと

 印象に残ったところです。

 

P56

 人は当たり前のことでは納得しないものです。こんな感じです。

「これが答えだなんてありえない。これでほんとうに全部なの?」それが、あるがままを認識する上でまさに邪魔になっているんです。こんなのはそれではありえない、どこか別のところにあるに違いない、もっといいもので、もっと輝かしいものだろう、という期待がです。そんな期待も、どんなことを頭に思い浮かべていても、それが邪魔なんです。

 最終的には、自分にはまだわかっていないという観念がしだいに弱まっていきます。そういうことをめぐって生まれる思考そのものも、ただの物語です。マインドなんです。コントロールを失いたくないんです。簡単には放してくれません。思考は回り続けます。でも、人が思考をもう額面どおりには受け取らないということ自体が、思考のエネルギーを奪って、しだいに弱めていくことになります。そして自然に消えていきます。

 

P114

 ・・・たとえばあなたがジェーンだとしたら、あなたはジェーンと同一化して、自分はジェーンだと考えて、ジェーンであるものすべてが自分なんだと思うでしょう。ジェーンは人格をもった人間です。好きなことがあって嫌いなことがあって、気分にむらがあって、病気にもなって、愉快なときもあれば悲しんでいるときもあります。ジェーンには良いことが起こったり、悪いことが起こったりするわけですが、ある日恐ろしいことが起こるんです。ジェーンは死にます。それはジェーンにとっては素晴らしいことではありません。ジェーンの人生にはいろいろな恐れがあります。それは、ジェーンが「生まれてきた存在」と同一化しているからなんです。

 私が認識したのはたぶんこんな気づきなんだと思います。「自分はいつか死んでしまう存在ではないんだ」。ですからほんとうに、これは何と同一化しているかという問題なんです。ある意味でものすごく単純なことです。・・・

 わかってしまえば、まったくわかりきったことになります。それでこう思います。

「なんてこった!今までなんで気づかなかったんだろう?何をどうしたらこのつまらないちっぽけな奴と同一化して、ずっともがき続けてこられたんだろう?」

 と言っても、その人でいるのをやめるというわけじゃないんです。・・・目に映っている姿よりもはるかに大きな何かだということがわかっているという、ただそういう話なんです。

 

P129

 ・・・うまく表しているのが、起こっていることはすべてスクリーンの上で起こっているという表現です。すべてはスクリーンに上映されているけれども、スクリーンそのものはそこに映っている画像ではないんです。スクリーンは何でもありません。無です。

 私は自分が誰かということをはっきりわかっていますし、どんな思考が生じているかということにもしっかり気づいています。考えることが起こっています。質のいい思考が起こって、たいていは整然とした思考が生じています。ただし、それはこの無という文脈の中、この存在という文脈の中で生じているんです。

 

P137

 自力では前に進めません。ですからプロセスを信頼してください。すべてはそのままで問題ないんだということを信頼するんです。自分に厳しくしないでください。今いるところがいるべき場所なんです。もし何か感情が生じるとしたら、それは理由があって生じています。そして生じることには価値もあるんです。

 明け渡しのプロセスの中で自分そのものが失われてしまうんじゃないか、という思考がどこからか生じます。個人としての人格がきちんと存在していることには価値があって、個性を気にすることにも価値があって、自分自身という全体性にも概念にも価値があります。そういうことには価値があるんです。それは捨てないといけないようなものではありません。そこがつまり問題なんです。何かを放棄しなければいけないという話ではありません。放棄しないとダメだという思考があるだけなんです。