マインドが割り込んでくると・・・

わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと

 だいぶ長くなりますが、マインドの動きをわかりやすく語ってくれていたので、書きとめておきたいと思います。

 

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 その「経験」で僕の人生は変わった。それが僕の人生を変えたと言うのはかなり変な感じがする。僕は以前は違ったけど、今は同じだ、と言っているようなものかな。何も変わっていないけどすべてが変わったというような感じ。難しいなあ。このことについて話そうとすると、話している人の観点からしか話せないからね。ほとんど自己矛盾の世界だよ。僕は以前と同じことを今でも続けているし、その点から見ると人生で変わったことは何もない。でも、変わったことがあるとすると、心配がなくなって、不安もなくなったということかな。何についても悩まないし、何も心配はない。自分は劇の中のただの登場人物で、いろんなことが自分の周りで起こり続けて、自分は登場人物のひとりとしてそれなりのやり方でそういうことに反応していくだろう、っていう認識があるんだ。そのとき自分には選択する自由はない。それで問題ない。どんなことが起ころうが問題ない。いずれにしても自分にはまるで関係ないことなんだから。

 ここに身体があるかって?答えはイエスとノーだね。身体は存在していて、養わないといけない。壁に頭をぶつければ痛みを感じるだろうし、いい気分はしないだろうね。つまりそういう身体性はある。そういうものが消えるってことはない。でもそれは誰かに起こってるわけじゃないという感じかな。ものごとの見かけの上でそういうことがただ起こっているだけで、このキャラクターは特有のやり方で行動するということ。でもそこには気づきがあって、気づき以上のものなんだけど、言ってみればこんな感じ。

「これは起こっている。でも自分に起こっているわけではない」

 あらゆることが起こっていて、そのあらゆることが自分なんだ。存在してるのはひとつだけなのに、まるで複数のものが存在しているみたいに現れてるってこと。でも実際にあるのはいつでもただひとつのものだけなんだ。何も分離してない。

 こういう言い方が適切かどうかはわからないけど、まるですべてがここ(自分の胸に触れる)で起こってるような気がする。・・・起こっていることはすべてここで感じられて、ここで知覚される。だから何も自分の外にはなくて、全部ここにある。ということは、すべてがここにあるんだから、僕はここでそれだってこと。意味が通じるかな?・・・でも、すべてが自分の中で起こってると言った瞬間に、それは身体のことを言ってるように聞こえてしまうよね。でもそう言いたいわけじゃないんだ。

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 ・・・経験は思考に基づいてる。思考することで経験がもたらされるんだ。実際には何も起こってなくて、何かが起こっているという見かけだけがただあるんだよ。起こってることは何もない。起こってるように見えても見かけなんだ。存在してるように見えるけど、必ずしも実在してるわけじゃない。実在してると同時に実在してないんだ。この劇の中には、ものごとや現象という見かけがあって、それが存在してるように見える。でも実際のところは何も存在してない。だからある意味では、すべてが存在していて、何も存在してないってこと。同時にね。

 すべては無の中の見かけなんだ。何かがほかのものよりも先に存在してるってこともない。すべては無が見かけとして生じているだけ。無が何かとして現れているということ。一人ひとりの人間を無の表現として見るのが普通になってる。人を批判するということもない。「あれは良くて、あれは駄目だ」ということもない。すべてはひとつだけど、それがいろんな形で現れているだけってこと。

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 僕らは劇の中のただの登場人物なんだ。劇を監督している存在じゃないってこと。まるで自分が監督してるように見えるし、そういう気がするけど、そうじゃない。その意味で考えると、ここにはわくわくする側面がある。つぎには何が起こるんだろう?ものごとはどう展開するんだろうか?って。でもそれは、この僕という登場人物がするだろうことを僕はしません、という意味じゃないんだ。・・・

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 ・・・覚醒とはただ単に、どこにも誰もいないってことを認識するってこと。ここには誰も存在してない。ひとつのものがそれ自体をいろいろな形に分けているだけなんだ。いろんな形をとって現れてる。それだけ。

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 誰でもこのことを最初から知ってるんだ。ほんとうにもうわかってる。でもマインドが現れてこう言うんだよ。「いやあ、どうもわからないぞ」。それがまさに問題なんだ。マインドは、すでに知ってることを理解しようとする。でもマインドにはそれは理解できない。・・・

 ・・・ほとんどの場合、感じるってことについて人が話しているとき、それはじつは感じるのとは全然違うんだ。人が話してるのは、僕が言うところの「感じたこと」なんだよ。なぜそう呼ぶかというと、「感じたこと」は思考から生じていて、思考(考えたこと)は「考える」の過去形だから。だから僕らは実際にはほとんどの場合、「考えたこと」をしたり「感じたこと」をしたりしてるだけなんだ。それがマインドのすること。マインドはただ単に、このことについて「考えたこと」をして、するといろんな「感じたこと」が現れる。ぼくはそう理解してるんだ。ほんとうに考えること、ほんとうに感じることは、そんなのとは全然違うことだよ。

 これは感じ取るということにかなり近いね。・・・ただ目を閉じてあらゆる音や騒音に耳を傾けて感覚を感じるとき、感じ取ってる。それが今話してることなんだ。ただ感じるっていうこと。ただ感じ取るってこと。・・・

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 何年か前にアメリカにいたとき、NBCかCNNだったと思うけど大手テレビ局の番組宣伝の看板が立っていて、そこに「あなたの知りたいを満たす」って書いてあった。そのスローガンはじつに見事だと思ったね。人のいちばんの弱みを突いてるんだから。・・・

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 ・・・マインドはものごとに意味づけをするよね。意味づけをすれば安心できるから。何かを知ってれば安心できるから。ものごとを理解したり、何かに納得したり、意味づけをしたりすれば、マインドは安心していられるってわけ。

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 無関心の感覚があるかどうか?ある意味ではイエス、別の意味ではノーになるね。完全に生き生きとした感覚があって、ものごとにしっかりとつながってる感覚がある。それと同時に、ものごとに振り回されたり、巻き込まれたりすることはない。・・・ちゃんと関与はしてる。ただ、結果に対する感情的なこだわりはない。・・・どうなろうと問題はないってこと。

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 哲学者のイマヌエル・カントだったと思うけど、こんな言葉がある。

「世界はそれがあるように現れるのではなく、自分があるように現れる」

 これはなぜかと言えば、僕らには世界を実際にあるように見ることは絶対にできないから。自分たちが見るようにしか世界を見ることはできない。まぼろしのようなもの。

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 いろんなことが起こって、マインドはその意味をつかもうとする。それがマインドの仕事だから。・・・マインドが割り込んできて「これはこれを意味するに違いない。あれは間違いなくそういう意味だな」とか何とか言うこともある。それはすらすら出てくる。・・・

 それがマインドのすること。マインドはいつだって理解しよう、知ろう、解き明かそうとする。・・・生き残ろうとしながらね。・・・マインドがしてることといったら、マインド自身を守ろうという、それだけ。まるで安全じゃないみたいに。それに、自分がコントロール主体ですっていう感じで。実際は全然違うのに。

 結局それが伝えたいことだね。僕らはコントロールしてないんだってこと。自分でコントロールしてると思い込んでるよね。自分で選択してると思い込んでる。自分で決めてると思い込んでるんだ。でもそれは見かけ。すべてただの見かけなんだ。・・・