こころを磨くSOJIの習慣

こころを磨くSOJIの習慣

 他の本で、松本紹圭さんのお話が興味深かったので、こちらの本も読んでみました。

 この堀澤祖門さんの言葉は印象に残りました。

 

P52

 ・・・大原三千院の堀澤祖門ご門主に、「掃除地獄」の体験をお聞かせいただきました。

 浄土院は、掃除地獄といって、比叡山の三つの地獄のうちの一つとして恐れられているようですが、それは外から見てのお話です。行っております本人は地獄とは思っておりません。行ですから、楽だとか楽しいなどということはないにしても、そんなに苦しいとは思わない。苦しいと思ったら、続きませんからね。

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 私は浄土院に、六年間くらいいました。・・・掃除をするときは、掃除になりきってしまっていて、あまり考えません。なりきっているから、時間を忘れてしまいます。楽しいんです。

 こんなふうに、時を忘れるほどに掃除になりきる、これがいいんじゃないですかね。行としてしまうと、「行をしなければ」「掃除をしなければ」という意識がどこかに出てきてしまいますからね。それはまだまだ雑念です。それも忘れてただ、ほうきならほうきと一緒になる。草引きなら草引きになりきる。そうすると、時間が経つのを忘れているということになるわけです。私の掃除はそのようなものですよ。

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 お経を読んでいるうちは、読むことに集中していますから、何も考えないでいられます。・・・掃除も同じです。考える必要はありません。ほうきになりきればいい。

 あれこれ考えることとは、頭で分別することです。そして、分別心というのは一種の妄想です。妄想をなくすためには、考えたらいけないのです。妄想をなくそうと考えるというのは、いわば「考え」を「考え」で抑えこもうとすることで、プラスマイナスの力が同時に働いているわけで、両方とも邪魔なんです。

 考えることを集中することだと思っている人がいるかもしれませんが、考えることと集中することは別もの。集中しているというのは、考えられない、ということです。集中とは、それになりきっているからこそ集中なんですから。掃除しているとき、ほうきになりきるのと同じようにね。

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 お寺とか神社の周りには、必ず大木があります。そこが聖域となって、人びとを惹きつけ、安らぎを与えています。まずは、この聖域を掃除するのですが、そのうち、聖域はお寺や神社だけじゃなくて、あらゆるところがそうだとわかってきたら、大したものです。普通は、そこがなかなかわからない。聖なるものと聖ではないものを分けて、自分の日常は聖ではないと思っている。お寺や神社のような特別な空間だけが聖だと思っているから、わざわざ時間とお金をかけても、そこへ行きたがるわけです。

 ところが、本当にわかった人は、自分の空間、自分の現在いるところそのものが聖なんだと感じる。それが悟りです。聖域を別なところに求めたり、聖者を自分たちとはまったく別な人たちだと考えるのは、区別と比較による相対的な世界です。これに対し、悟りに至ると、すべてが聖になる。何ひとつとして、「法」でないものはなくなるのです。

 泥を落としたら仏になるという考え方があります。われわれは、もともと凡夫だと。泥だらけの凡夫だから、泥を落としていけば、いずれはそれが全くなくなった仏になるんじゃなかろうかと。だから、成仏というのです。仏になる、と。

 でも、そうそうできることではない。私も長いこと修行してきましたが、自分を変えるというのは、まず不可能です。

 掃除にしても、掃いても掃いても枯れ葉は積もる。完成ということがない。よくやったものですよ。上のほうにある木を揺すって、明日の分の葉っぱも落とす。明日の分も掃いちゃっておこうと。それが人間の気持ちなんですね。

 でも、掃くべきものが何もなくなるようにするのが掃除じゃない。無限にきりのないものなんです。「俺は悟ったぞ」と言うとしたら、悟ることそのものより、悟った自分がいるんだ、ということを言いたいだけなんでしょう。「自分」がいるうちは、これ(自分)が邪魔なんですね。