無駄なことなど何ひとつない

お見合い35回にうんざりしてアメリカに家出して僧侶になって帰ってきました。 (幻冬舎単行本)

 家出するくらいですから、ご実家との関係はよくなかったそうですが、色々なことがあり、お寺を継ぐために帰国することになったそうです。

 間のページをずいぶん端折ってしまったので流れがわかりづらいかもしれませんが、こんな気づきが語られていました。

 

P163

 ・・・もっと仏教について知りたい!と、日本に帰ってきた翌年の春から、大学で聴講生として学び始めました。

 正直な話をすると、知りたい、だけじゃなかったのです。必要だったのです。

 何が必要だったかというと、「浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ」と、世間で言われる悲劇を、大事な縁として受け止められた事実です。韋提希と同じ苦悩を抱えていたとはいえません。けれども、苦悩のど真ん中にいた私にとって、その事実は救いであると同時に、拠り所でもありました。必要だったのです。親鸞さんに、そのような受け止め方をさせた教えが、私には切実に必要だったのです。

 大学では『真宗聖典』という本を常に使います。・・・

 その本を手にして、お経さんに説かれていることや、親鸞さんの受け止めを読んで、心底、驚きました。「え?なんで、うちのこと知ってはるん?」と。

 それは不思議な感覚でした。アメリカ生活で経験したこと、そこで気づかされたこと、漠然と感じていたことが、キチッとした言葉で理路整然と目の前に並んでいたのです。まるでそれは、問題集についてくる解答集のようで、答え合わせをしているような感覚に陥ったのです。「ここには、全ての答えがある!!」。

 言葉を変えれば、それは人生の種明かしでした。・・・

 ・・・

 たとえば、お見合いが嫌でアメリカに家出をしたこと。これは、私には出て行くだけの正当な理由がある、正義があると思っていました。けれども両親にも両親の価値観での正当な理由があったのです。お互いがお互いの価値観を握りしめ、それによってぶつかり合っていたのです。

 アメリカで生きていくために、色々な仕事をしたこと。そして、他人を蹴落としてまで、がむしゃらに働いたこと。一ドルでも多くのチップ欲しさにテーブルを取り合うなんて恥ずかしいことですが、私には正当な理由がありました。・・・私は社会的弱者だからがむしゃらに働くしかないんだとの思いを握りしめていたのです。

 アメリカで生きて行くためのビザ欲しさにお坊さんになったことは、その最たるものです。自分にとって、これが得だ、都合がいいとの思いを握りしめ、お坊さんになったのです。お坊さんって、そういう思いを手放した存在じゃナイの?と、自分にツッコミたい気分です。

 跡継ぎだった弟が、お坊さんが嫌だといって寺を出て行ったから、日本に帰ってきたのも同じです。義理や人情といえば聞こえはいいかもしれませんが、所詮、自分を犠牲にしていい人でしょ~と、いい子ちゃん。本人はそのつもりではなくても、自分がよかれと思ったことを握りしめていたにすぎないのです。・・・

 ぜ~んぶ、自分が握りしめていたんです。自分の都合、価値観、正義、それらは私の「思い」です。・・・

 ・・・

 そう、ぜ~んぶ、思いなんです。自分の思いで、自分が苦しんでいるのです。そして、仏教の種明かしによって知らされるのは、そんな自分の思いをも包み込む広い世界があるということです。・・・

 ・・・

 悲しいこと、辛いこと、苦しいこと、腹が立つぅ~との思いは決してなくなりません。起こった事実は変わらないし、変えられません。けれども、過去の全てが大切なことだったのです。私にとっては不都合な問題でも、大切な問題。そして、その不都合な出来事の、どれかひとつが欠けても、今の私はいないということ。無駄なことなど何ひとつないのです。それが人生の種明かしによって、私が知らされたことです。