つながりの中にある

人生が変わる!無意識の整え方 - 身体も心も運命もなぜかうまく動きだす30の習慣 - (ワニプラス)

 こちらは浄土真宗の僧侶、松本紹圭さんとの対談です。

 印象に残りました。

 

P74

松本 人間はみな「わたしはどこから来て、死んだらどこに行くのだろう」という素朴な問いを抱えています。この問いへの答えは、世界中の宗教や神話などにたくさん用意されています。何をどう信じたいか、どうあって欲しいか、それぞれが願いを込めて選び取ったりしているわけです。

 ・・・

 でも「どこから来てどこへ行くのか」という問いには、「わたし」という存在の核(コア)が変わらないものとして想定されます。「来る」「行く」ということをする「わたし」の存在が前提になっている。だから、そういう問いが出てくる。でも、そうじゃないんだと。

 


前野 いない、と。

 


松本 「いない」といってしまったほうがわかりやすい向きもありますが、仏教は「いない」「無」といい切ることには慎重です。あるともないともいわない。

 


前野 「無我」という言葉がありますよね?

 


松本 たしかに無我とはいいますが、「縁起」「空」とセットで考えることが大切です。

 ・・・

 わたしは空としてある。そのものに実体があるわけではないけれど、あらゆるものとのつながりの中にあるわけです。わたしがわたしというコアを持って独立したものとしてあるという考えは、幻想なのだということになります。これを腹で理解するんです。

 でも、それを理屈で理解しても、生き方がすっかり転換するかというと、そうではありません。相変わらず「オレが」という気持ちが出てしまう。エゴは簡単には死にません。それまでの思考のクセが残っているから「アレを食べたい」「コレが欲しい」と思ってしまう。「わたし」がいないのなら「欲しい」なんて思わないはずなのに。わかっちゃいるけどやめられない。

 


前野 本当にはわかっていないから、そうなるんですか?

 


松本 うーん。わかってはいるんだと思います。けど、やめられない。からくりは見破ったんだけど、まだからくり自体は動き続けているわけですね。

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 ・・・華厳経というお経に「インドラの網(因陀羅網)」という例えが出てきます。インドラ網と呼ばれる網の結び目には、それぞれ宝石が結びつけられている。その輝きはまわりすべての宝石の光を反射しています。わたしたち個々の存在は、網の結び目のようなものだというんです。「結び目」というのは、結び目としての実体があるわけではなく、ひもとひもの結節点が、仮にそう呼ばれているわけです。ひもを縁と見るならば、一人ひとりの存在は、個々が独立した実体としてあるわけではなく、縁と縁の結び目に仮に成り立っているのです。しかも結び目にある宝石の輝きは、他の宝石すべての輝きを反映している。これは、釈尊の悟りで説かれた「縁起」を教えるものです。

 ・・・徹底していくと、すべては仮の成り立ちとして見ることができます。「わたしの存在」が仮ならば、「わたしの煩悩」も成り立たないじゃないかというわけです。

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 龍樹はこれを「無自性」と表現しました。難しいのですが「それそのものとして独立して成り立つものは何もない」という意味です。すべては縁によって、起こっては流れ、起こっては流れている。縁起のダイナミズムによって、仮に構成されているに過ぎない。だから、実体的なものはどこにもない。

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 ・・・仏教では煩悩を「滅する」といいますが、滅する煩悩自体にも自性はないんですから、煩悩を滅することは成り立たない。ですから、やめられないのも「仮に」起こってるだけだから、それでいいじゃない、となるんです(笑)。

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 わたしたちは日常、わかったような顔をして、この世界を自分の意思で生きていると思っていますが、本当は、lifeがlifeを生きているとでも表現するしかないような、不思議な世界にいるわけです。ただ、このことに気づけたのは、すごく大きいと思うんです。怒りの感情が湧いてくるのを止められない。だけど、すべては縁で起こっているのだと気づいていれば、そこにイチイチ囚われずに済む。・・・だって、わたしの怒りじゃないんですから。・・・