この一週間、スターラインズ
スターラインズ | モンロー研究所公式プログラム | Aquavision Academy アクアヴィジョン・アカデミー
に参加してきました。
初めて受講したときは、なんかよくわかんないけど面白かった(笑)、という感じだったのが、3回目の今回は、とても充実した体験ができました。やっぱり再受講しなきゃもったいない内容だな~と改めて感じました。
また近いうちにここにも記録したいと思います。
ところでこちら↓は、参考になったノンデュアリティに関する本です。
P53
思考はないし自分もいないってことは、わかろうとしてわかることじゃない。わかろうとしてもうまくいかない。
そうじゃなくて、自分がなにを前提にしているかを見直してみるだけでいい。思考があると思っているし、自分がいると思っている。でも、思考が存在すること、自分が存在することを証明しようとしながら、思考を頼りにしているってことに気づくだろうか。考えることによってどうにかしようとしている。
それじゃあうまくいかない。
直接の経験を頼りにしてみよう。たった今、見てみる。たった今、感じてみる。なにかが見つかるかどうかに注意を向ける。思考を見つけられるだろうか。自分を見つけられるだろうか?
P72
別の言い方をすれば、僕がしていた間違い、そしてほかの人たちがしょっちゅうしている間違いは、無を探してしまうってことだ。これはたいていは問題になる。無を探している誰かがいるっていう意味になるから。でもそんなことをするかわりに、分離しているものや個々のものが存在しているという前提を見直してみよう。ものを探してみる。思考に頼って答えを見つけようとせずに、注意深く調べてみる。今あるものが認識できるまで。
P90
探求者はいろいろな質問をするけれど、中でもいちばんよく耳にするのが(僕自身も何度も質問されている)、あるということの単純さを「頭では理解している」のにどうして苦しみが消えないのかという問いだ。そう質問する人たちは、さらにどんなことをしたらいいのか、そしてあるということの単純さをどうすれば「完璧」に理解できるのかを知りたがっている。
問題は、知的な理解というものは、あるということの単純さとは一切まるで関係ないってことだ。それだけじゃなくて、あるということの単純さは絶対的に理解できない。当然だけど、理解できたとしたら、その理解したことはあるということの単純さとは違う。
・・・
僕の知るかぎり、あるということの単純さに目覚めるためのもっとも単純で簡単な方法は、理解したいという衝動をひとつひとつその源までたどってみるというやりかただ。理解したいという衝動がどこからやってきているのかを見つける。その衝動がなんなのかを発見すればいい。
これは、直接の経験にとどまるのとまったく同じだ。どんな答えも受け入れるのを拒むというのとまったく同じ。努力なしにあるということとまったく同じだ。努力は本当にまったく関係ない。これはすることじゃない。獲得するものでもない。ただのこれだ。これは避けられない。ただのこれ。
P107
・・・僕のアドバイスは単純だ。なにかを探し求めるのをやめよう。そのかわりに好奇心を持つ。赤ん坊がただ触るために触り、ただ音をたてるために音をたて、ただ見るために見るのと同じように。意図を持たずにいる。そうすれば、まったく明白なことをついに発見できる。なにかを求めながら進めば、余計な荷物を大量に探検に持ち込むことになって、先入観で探究をゆがめてしまう。
P122
自己探究というのはマントラとは違うし、答えを出さなければいけないような問いとも違う。自己探究の本質は、自分を誰だと考えてきたかっていう点に本気で関心を持つところにある。自分とはこういうものだという考えが実際に事実だと決めてかかるかわりに、それについて調べてみる機会だ。解かないといけない謎じゃない。逆に、なんでも解かなくちゃいけないという強迫観念を解体することだ。自己探究とは、これが自分なんだと誤ってとらえていたなにかが分解して、今あるものという境界のなさに溶け去ることだ。個別の自己は存在していないと気づいたとき、解く必要のあることはなにもない。
間違いは、なにかを手に入れるため、あるいはどこかにたどりつくための手段として自己探究をするところにある。自己探究の本質は、自分だと思い込んでいたものには実体がなかったこと、存在してもいなかったことに気づくことだ。中心はない。ここには誰もいない。
P129
思考を止める必要なんてまったくない。マインドを静かにさせる必要はない。そんなのはまるっきり時間の無駄だ。苦しみを長引かせるだけだ。それでも本当にたくさんの人が騙されていて、思考をどうにかしなきゃと思い込んでいる。思考を止めるか、もし止めるのが無理なら最低でも思考をコントロールして浄化し、「善い」思考だけを考えられるようになることが「前提」のあかしだと主張する「スピリチュアル」な教えは数多い。そういう教えはたくさんの人を観念的な混乱にがんじがらめにして、解決しなきゃいけない問題があるという間違った考えを強める。悪循環だ。
P191
荷物を全部脇に置いて、そんなこだわりは捨てて、緊張が体のどこで感じられるかに注意を向けてみよう。その緊張をやわらげられるだろうか。やわらいだら、くつろぐ。手放す。緩める。
そして、なにが本当に必要なのか、足りないものがあるのか、たった今この瞬間に実際に問題があるのかどうかを見てみる。
そのとき、すべてが実際は無意味だったってことがわかる。それでいい。無意味さの喜びがはっきりする。
意味があるんだと信じていないとき、今あるものという単純な喜びがある。
それこそがずっと求めていたものだ。