私はいない

早く死ねたらいいね! ― <私はいない>を願う人への非二元と解放の言葉 (覚醒ブックス)

 こちらもノンデュアリティについての本です。

 

P16

 ・・・これまでは、一人の人間がいるという感覚がずっとあった。それがこの人生に意味を与えてきたし、長年それを疑問にも思わなかった。あまりに当たり前になりすぎて注目すらしなかった自分、自分の中心、自分の所在というものが、今や完全に余計なものに見える。突然、私には人生などなかったのだとわかる。なぜって、「私」はそもそも存在していなかったのだから。「私」がいない時に初めてすべてはただあるがままに見えてくるのだと、永遠の一瞬の中で知る。私が人生を経験しているのではなく、私は経験されている。私が行動するのではなく、私という神聖な操り人形を介して行動が生じるのだ。

 この小さな、それでいてとても重要な人生とやらのすべての心配事は、一瞬にして剥がれ落ちる。

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 解放は個人のものではなく、心理的、感情的な体験、「スピリチュアルな」体験とはなんの関係もない。たとえそれがどんなに純化されたものであってもだ。スピリチュアルな、あるいは心理的な体験は、個人の体験にすぎない。ひとたび自分が無であるとわかれば、すべての体験は見かけ上の人だけに起きるもので、ワンネスの中にまた消え去っていくこともわかる。そこに重要性はまったくない。その体験が起きている人は実在せず、そこに意味がある可能性はゼロだ。

 そして解放は、問題や関心事があろうとなかろうと、それが続こうと続くまいと、それとは一切関係ない。

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 解放は、「あなた」の存在をまったく必要としていない。これを書いているのは一人の人間ではない。ワンネスが書いている。そして、ワンネスがこれを読んでいる。

 

P64

 昨夜、旧友とレストランで夕食をとっている夢を見た。勘定を頼んだが、済ませる前に目が覚めた。友人は僕の分まで払わされたのだろうか?

 この夢についての疑問がばかげていることはすぐにわかる。「死んだ後、私はどうなるんだろう?」という疑問も同じ。自分は夢の中の登場人物であることがわかれば、この疑問は解消する。死ぬ「私」なんていないこと、夢を見ているマインドにだけ時間が生まれるのだから「後」なんていうのもないこと、そして、死というのは夢から目覚めることにすぎないのだから「死」もないことがわかる。

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 ・・・マインドには自らの消滅を想像することなどできない。マインドは夢の中で死らしきものに直面すると、自分は死後も存続するというストーリーを作り出す。こういうストーリーはすべて、「勘定の前に目覚めてしまった人の食事代は誰が払うんだろう?」という疑問への答えと同じようなもの。・・・

 

P102

 ・・・これは目覚めが起きた一瞬についての記述で言及したことですが。

 人である自分は戻ってきたけれど、さっきも言ったように、もう二度と取り返しのつかない変化が起きていました。その取り消し不能な変化の一つは、過去に実体がなくなったということ。それが起きるまでは、この人は人生の大部分を過去に生きていたんです。・・・この見かけ上の人物がやったことについて、マインドはあれこれと考えを巡らしてばかりいました。過去はとてもリアルな場所だったし、想像の中での過去の記憶にはしっかりと実体がありました。

 目覚めの一瞬を経てから気づいたのは、「それはただもう終わったんだ」ということ。私にはそう伝えることしかできません。・・・記憶喪失ではないから、その後も簡単に思い出すことはできました。・・・ただ、そんな出来事を思い出そうという衝動がなくなっていた。・・・過去の鮮やかなイメージは消えてしまい、それとともに過去の後悔や罪悪感も消えたんです。もう過去の何もかもがリアルに見えないから、そこへの後悔や罪悪感もなくなったということです。

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 解放が目の前に現れると探求は終わる。それは素晴らしいことです。

 この人物にとっては、目覚めの中ではすべてが終わり、誰もいなくなりました。個人の苦しみ、個人の苦痛、そういったものは起きようがなかった。それで、人物が戻ってきた時の反応はというと、「うわ!なんだこれは!」でした。人物が戻ったということは、その人物の現実も戻ってきたということ。だから、その後一年くらいはとても大変でした。・・・というのは、分離の感覚はまだ残っているのに、何を探求しようとまったく意味がないことがわかっていたから。・・・

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 ・・・解放が見えたら、途端に何も必要なくなります。そこに求めるものなんてありようがないでしょう?分離などないとわかるから、探求は終わりを迎えるしかないんです。

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 解放の中では、人はいなくて現象―感情や思考、視覚刺激、触覚感覚、聴覚刺激―がただ生じます。私が「これ」と呼んでいるのはこのことです。これを見ること、なんであれ現象がそれ自体を示している様子を見ることが、そこに存在しています。解放の中では、意識の中でこれらの現象が人を介さずにシンプルに生じているのが見えるのです。

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 ・・・(自分を指して)ここにあるのは意識で、その意識の中にすべてが生じます。ここに生じるものの中に、もしかしたらある人物という感覚があるのかもしれません。

 

P137

 どんな場合でも、常に不満が衝動となります。その不満は通常、たとえば「この車、この仕事、この妻では不満」とか「もっと大きな家に住めさえすれば幸せなのに」というふうに体験されます。この不満の中心はもちろん、仕事やパートナーや車やもっと大きな家とは関係ありません。その中心にあるのは分離の感覚です。