人間の目利き

人間の目利き アラブから学ぶ「人生の読み手」になる方法

 まったく常識が異なる世界を知っていると、いろんな考え方ができていいなぁと思います。

 

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吉村 エジプト考古学の研究だけではとても食べていけなかったころ、日本から来るマスコミの仕事を手伝っていたのですが、パレスチナの取材をしていたときにイスラエル贔屓だと誤解されてヨルダン軍に捕まってしまい、軍法会議にかけられそうになったことがありました。

 ・・・僕の経験から言うと、捕まったときに逃げる方法は金しかありません。ヨルダン軍に捕らえられたときは、テレビ取材班のディレクターとカメラマンと僕の3人でしたが、・・・「とにかく落ち着いてください。今、金はいくら残ってますか?」と聞いて、3人で3000ドル集め、牢屋番を呼んで、

「僕たちは急いで行かないといけないところがあるので、行ったら必ず戻ってくるから、ちょっと出してくれないか」

 と言ったんですよ。そしたら、

「いくらだ?」

「500ドル」

「だめだめだめ」

「じゃ、1000ドル!」

「だめだめ」

「1500!」

「……うん」

 それで1500ドルを握らせて、一目散に逃げたんだけど、しばらくしたらカメラマンが「あ、機材がない」って呆然としてるんですよ。牢屋にカメラを置き忘れてきちゃったの。取りに戻ると、また捕まっちゃう。・・・思案していたら、向こうから緑の旗を立てたアラブの監視軍が来たんです。これはもう監視軍に頼むしかないと思って、一か八か手を挙げてみた。そしたら止まってくれて、実はこれこれでと事情を話したら、

「おまえのアラビア語はなまってるな」

「ええ、カイロで暮らしてますから」

「カイロのどこに住んでる?」

ヘリオポリス、ハルラシードストリートの60番です」

「……ああ、はす向かいに住んでいる日本人か。じゃ、行ってやろう」

 と。これ、本当なんですよ。

 

曽野 さっきの地縁を大事にするという話ですね。

 

吉村 そうなんです。その監視軍の上官は、それからも延々聞くんです。まわりに住んでる人はどうだとか、大家はだれだとか。そうやって僕の言っていることが本当かどうかをチェックしているわけ。当時、僕がヘリオポリスに住んでいたのは事実で、「門番のイブラヒム、あいつはちょっと危ないんだよねえ」なんて話にまでなるから、もう家族みたいなもの。だから、親切に車に乗せてくれたわけです。

 

吉村 監視軍の車が緑の旗をなびかせて、すーっとヨルダン軍の建物に入ったのはいいのですが、さっきの番人がまだいたんですよ。・・・僕の顔を見て、そいつ何て言ったと思います?「ああ、やっぱり帰ってきた」って(笑)。で、1500ドル返そうとしたんですよ。

 

曽野 へえ、律儀だわねえ。

 

吉村 僕は要らないと言ったの。

「その金は取っておいていいから、あそこのカメラがほしいんだ」

「カメラ?僕らはあんなもの使わないから持って帰ればいい。で、本当に返さなくていいのか、1500ドル。約束どおり戻ってきたのに」

「いや、それを返してもらったら、また、この檻の中にいないといけないから、僕にはまだ用事があるんだよ」

 などと話していると、監視軍の上官が牢屋番に言ったんですよ。

「おまえ、こんな立派な人を捕まえて、これがわかったら絞首刑になるぞ」

「えっ、そうなんですか……、やっぱり1500ドルを」

 と、あくまでも1500ドルにこだわってる(笑)。そしたら上官が、

「いいんだよ。それは、神さまの思し召しだ。でも、だれにも言うんじゃないよ。言ったら、おまえが捕まるんだからな」

「もちろん、言いません!」

 

曽野 神さまの出番って、あるんですねえ。

 

吉村 そうなんですよ。「1500ドルは神さまからもらったんだ。その代わりみんなに言うんじゃないぞ」「はい」って(笑)。監視軍の上官は、自分の家のはす向かいに僕が住んでいたというだけで、僕らも番人も助けたわけです。上官も、すごく喜んで、「よし、お祝いに今晩、うちの宿舎でごちそうしてあげる」と言って、本当に呼んでくれたんですよ。

 この話をすると、日本人に「その上官に会わなかったらどうしたんだよ」とよく言われるんだけど、そんなことを考えてもしょうがない。アラブは運だから。運良く、その人に出会ったのだからそれでいいんですよ。そういうのを深く追求しても、また、それを期待してもしょうがない。同じことは二度と起こらないから。

 

曽野 そう、まったくそうです。しかし運はありますからねえ。

 

吉村 二度と起きないことでも、信じることが大事なんです。信じていないと、そういうチャンスはこない。いつも危なくなると、神さまは必ず助けにきてくれる。そう思っているんです。

 ・・・

曽野 この章の冒頭でも話したように、アラブでは、あらゆることで「インシャー・アッラー(神の思し召しのままに)」という言葉を聞きますね。

 

吉村 日本人がアラブで生活するようになって、まず戸惑いの原因になるのがこの言葉かもしれないですね。ムスリムイスラム教徒)は、何か約束するときに、必ず最後にこのひと言をつけ加えるんですよ。

「このお金はいつ払ってくれますか」

「来月です。インシャー・アッラー

「今度からこんな間違いは絶対にしないでくれ」

「わかりました。インシャー・アッラー

「それでは明日午後1時にお会いしましょう」

「はい、インシャー・アッラー

 ・・・

 そう言われたときに「バカじゃないの?明日会うことまで神さまにお願いするなんて」というような顔を絶対にしちゃいけない。日本人は、「インシャー・アッラー」を約束が果たせないときの逃げ口上だと考えるけれど、彼らは本当にそう思っているんですよ。・・・

 なぜならムスリムの運命は、アッラーの神によって定められている。その運命をだれも避けることはできない。・・・世の中というのは、自分の意志とは無関係に予期せぬ出来事が起こるものだ、ということをムスリムは承知しているんです。・・・「インシャー・アッラー」は、人間の小ささを知る者だけが持つ大人の知恵なんですよ。