交換モデルX

オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る

 私には難しく感じられたテーマでしたが、嚙み砕いて語ってくれていたので、大事なことだと視野が広がりました。

 

P89

 中学生の頃、一冊の本と出合いました。オーストリアの思想家ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』です。・・・

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 私はウィトゲンシュタインから強い影響を受けました。・・・後期の思想は、「言語ゲーム論」と呼ばれ、言語の意味を特定のゲームにおける機能として理解すべきというものです。

 ・・・ウィトゲンシュタインの後期の著作では、言語の意味は必ずしもその文章の構造によって決まるのではなく、社会における実際の使われ方に依存していると指摘しています。AIというものの意義が、この社会においてただ単純に定まるというのではなく、やはり「人間による使われ方によって、AIの存在意義というものが変わってくる」という考え方は、後期ウィトゲンシュタインの思想と類似するものといえるかもしれません。

 私がウィトゲンシュタインから影響を受けたのは、まず彼の言葉の使い方です。私は「言葉の使い方」について、その言葉がどんな意味を伝えるのか、一つの単語がいったいどのような意味を伝達するのかを、非常に厳格に捉えています。言葉の使い方次第で、まるで一つひとつの単語の概念がそれぞれの役割を変えていくかのように変わっていくからです。そして、それらは論理関係を通じて連結しますが、この連結の方式もまた固定されているわけではありません。その時々の実際の状況に合わせ、まるで絵を描くように世界の真実の状態を反映させていきます。

 これは論理的に示される「picture」のようなものです。文字どおり、写真と同じです。写真はその瞬間の一つの状態や一つの角度しか捉えることができませんが、少なくともその角度からは、見たものや考えていることをできるだけ正確に写し出すことができます。こうしたことを、私は「論理哲学論考」から学びました。

 

P95

 私が現在興味を持っていることの一つは、日本の哲学者であり文芸評論家でもある柄谷行人さんが唱えている「交換モデルX」をデジタルの力で実現できないだろうかということです。

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 彼は多くの考えを持っていて、とくに『トランスクリティーク』に続いて刊行された『世界史の構造』などに出てくる「交換モデルX」という概念は、間違いなく私に大きな影響を与えています。少し説明すると、柄谷さんが言っている交換モデルXとは、家庭のような無償の関係の交換モデルA、上司と部下のような上下関係のB、政府内部あるいは不特定多数の人たちが対価で交換する市場のような関係のC、これら三種類に属さない四つ目の交換モデルを指しています。これは開放的な方法で、不特定多数の人々を対象としつつ、「家族のように何か手伝いを必要とすれば、見返りを求めずに助ける」という交換モデルです。

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 柄谷さんの交換モデルに関する基本的な考え方というのは、次のようなものです。

「交換」ということを考えるとき、二つの方向性があります。一つは知り合いと交換するか、見知らぬ人と交換するかという方向性であり、もう一つは交換の中で見返りの関係になるかどうかという方向性です。・・・すると、次のように二つの方向性で四種類の交換モデルが生まれることになります。

A 知り合いと見返りの関係にならずに交換するパターン

B 知り合いと見返りの関係になって交換するパターン

C 見知らぬ人と見返りの関係になって交換するパターン

D 見知らぬ人と見返りの関係にならずに交換するパターン

 たとえば、・・・(前記のA)というのは、家族です。・・・

 ・・・(前記のB)・・・は国家や政府のようなものを考えればいいでしょう。納税をすることによって国家や政府は私たちにインフラやサービスなどを交換で提供します。・・・

 次に・・・(前記のC)ですが、これは市場を考えるとわかりやすいでしょう。あなたがもし何かを売ろうと店を開くと、・・・お金を持って買いに来た場合、商品を売るでしょう。・・・

 そこで柄谷さんは問いかけます。不特定の人に対価を求めるわけではなく、無償で分け与えたいとすると、これはどんなモデルだろうか。・・・このモデルには名前が存在しません。柄谷さんはこれをXと名づけました。これが交換のXモデルです(前記のD)。

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 私が問題にしているのは、知識の交換のようなケースです。私が知識を誰かとシェアしたからといって、私の知識が失われるわけではありません。これは事実上、独占権のない無償の交換モデルですが、この場合、「私の知識をシェアした人が、その知識を用いて私の望まないことを行わない」という信頼関係が必要です。

 その信頼関係をどのようにして構築するか。それはまだ完全には解決していない問題です。だからこそ、「この問題を先に解決してからでないとこの道を歩み続けることはできない」と柄谷さんは言うのです。

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 ・・・柄谷さんは「無償」という概念を決して一種の宗教や信仰とするのではなく、純粋に交換モデルとして分析しています。つまり、「無償と交換の関係はどのようなものなのか」ということですが、たとえばそれは、私が何もかも無償であらゆる人に提供するのを見たあなたが、その行為に同意してくれて、あなたもまた同様の行為をするようなことです。つまり、完全に自発的な行為です。

 このような人間性に基づいた信頼関係は成立するでしょうか。もちろん、それは可能だと思います。・・・

 交換モデルXの概念は、「みんなとシェアする過程で、あらゆる人とお互いの信頼関係を築いていく」というものです。一般的には「まず相互の信頼を得てからシェアをする」という順番ですから、ベクトルは正反対です。

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 柄谷さんがこれまでの社会について言っているのは、たとえば市場であれば、一般的には「自由」という価値が必要であるということでした。ただ、この近代資本主義社会では、自由の理念と平等の理念は両立しませんし、家族のような自由・平等・友愛という価値については、まだ名前がつけられていません。だからこその〝X〟なのです。

 Xは自由・平等・友愛を補完するものかもしれませんが、だからといって自由・平等・友愛の重要性を否定するわけではなく、新しい可能性であると言っているわけです。

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 デジタル上で交換モデルXが実現することがわかれば、それを現実の政治面に応用することができるかもしれません。それが実現すれば、資源をめぐる争いもなくなる可能性があります。その先には、「公共の利益」というものを核として、資本主義に縛られない新しい民主主義が誕生するかもしれません。デジタル空間とは、そのような「未来のあらゆる可能性を考えるための実験場所」ではないかと私は思っています。