8年前に読んだ本も再読しました。
当時はなんとなく読んでたなぁと気づきました。
P26
・・・ロジャー・リンデンの週末リトリートに参加しました。・・・
・・・ロジャーがその日のセッションで何を話していたのか、僕には思い出せません。普通の雑談でした。そのうちロジャーがこう言いました。
「ちょっと話を止めてみよう」
僕は目を閉じて静止しました。そうしたら、
「ヒューン!」
何もかも消えてしまいました。しばらくして目を開けると、ロジャーがこう尋ねました。
「どうだった?」
「言葉にできません」
まったく言葉では表現できないものだったと思います。ある意味ではまったく何も起こらなかったんですが、それはほんとうに驚くべきことです。自分についてのイメージが消え落ちました。自分についての習慣的な観念がしだいに消えていって、そしてただ見ているものだけが残りました。・・・
・・・
僕にとっては、それはじつは至福とかそういうことではありませんでした。至福ではなかったんです。むしろ、それは解放で、苦痛がなくなってほっとしたという大きなため息でした。安堵感でもありました。そして、普通の状態に戻りました。すべてが元のとおりです。・・・
分離という中心的な思い込みの本質がいちどでも見抜かれれば、それで全部です。いちど見抜かれたら、それは見抜かれたということなんです。それでおしまいです。
・・・強烈な体験が「それ」だと思い込む罠に掛からなかったのは幸いでした。運よく、そのことはわかっていました。
「そうじゃない。<それ>とは何かといえば、それはただ<あるということ>だ。ただあるということを誰もが探し求めているが、ばかげてる!それを探し求めるのは正気の沙汰じゃない。あるものだけがあるんだから」
探究が止まったときに実際に起こるのは、ただ、「あるということ」の認識です。経験じゃないんです。「そうか、ただこれだってことなのか」という感じです。
・・・
言い表わすのはほんとうに難しいですね。自分がどうかということについて、気分が楽になりました。何かをすべきとか、すべきでないという考えは減りました。自分はこうでないといけないというモデルやイメージに合わせようとすることも少なくなりました。以前よりも気楽で快活になりました。瞑想のあとで目を開いたときに、ものごとが生き生きと鮮やかにはっきりと見えるのに気づく人は多いですが、言ってみれば、いつでもそんな状態にあるような感じです。大げさなことではないんです。神さまのビジョンを見たりとかそういうこともありません。ただ、少しだけものごとが前よりもはっきりしているというだけです。
ロジャー・リンデンは、気づきが自身に気づいているという言い方をします。意識は、意識があるということ自体にいわばギョッとして、びっくりしているんです。こんな感じでしょうね。
「うわあ!意識がこうしてほんとうにあるなんて、まったく信じられないよ!」
意識が存在していなくて、空っぽの無があるだけという可能性もあったわけです。見たり、聞いたり、机に触れたりできるというのは、じつに驚くべきことだと思いませんか?ほんとうに見えるし、聞こえるんですから。宇宙がこう言っているような感じです。
「わあ!どうやったらこんなことできたんだろう?何がどうなったらこうなるんだ?」
起こっていることが奇跡に見えるんです。
・・・
・・・ラメッシ・バルセカールが言ったことがかなり励みになります。
「あなたは勝手に連れてこられて、どの時点においてもそのときにする必要があることをさせられている。だから心配にはおよばない」
必要なことはすべてやってきます。一生懸命取り組むべきかどうかとか、努力したほうがいいのかどうかと悩まなくてもいいんです。宇宙はどの瞬間にも一人ひとりに必要なものを正確に与えています。それが自分の気に入るかどうかは別として。
言うに値する大切なことが一つだけあるとすれば、こうです。
「これだよ、今だよ。わかる?未来に何か特別なことが起こるとか、そういうことじゃないんだよ」
非二元や悟りについて話をしている先生たちがしているのは、それぞれの人にとって今どうなっているのかを的確に言い表すということだけです。その人たちが到達した特別な境地のことを話しているわけではありません。もしほんとうにきわめて幸運で、何度も繰り返し私のミーティングに参加してお金を十分たくさん払ったならば、あなたもそこに到達することがあったりするかもしれませんよとか、そういう話ではないんです。先生たちは、あなたが今どうなのかということ、それを言い表しているだけです。