そこに工場があるかぎり

そこに工場があるかぎり

 小川洋子さんの工場への思い入れを詰めこんだ本、知らないことばかりでお面白かったです。

 

P87

 町を歩いていると、時折、車輪付きの大きな箱、一、二歳の子どもたちが数人乗せられ、どこへともなく運ばれてゆくのを見かけることがある。手すりを握り、足をピコピコ屈伸させている子もいれば、隣の子にちょっかいを出して嫌がられている子もいる。あるいはまた別の子は、何に心を奪われているのか、流れてゆく風景をひたすらじっと見つめている。そして保育士さんが、慎重にゆっくりとその箱を押している。

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 子どもを運ぶ点では同じだけれど、ベビーカーとは全く異なる発想で大人数を移動させる、リヤカーにも似たあの乗り物は、一体誰が作っているのだろう。ある時、ふと気になった。調べてみるとすぐに、五十畑工業株式会社の名前が出てきた。場所は墨田区向島。こんなにも人を幸福にさせてくれる乗り物は、どうやって作られているのか、はやる気持ちを抑えつつ、東武鉄道東京スカイツリー駅に降り立った。

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 会社の設立は一九二七年(昭和二年)。社員は奥様、ご子息お二人を含めて四〇名。〈スワン〉ブランドのベビーカー、介護用品などを製造販売している。一番の特色は全工程を自社で一貫生産するという体制である。

「・・・一から作るのが我が社のモットーです。小ロットで作っているのでそれが可能になるのですが、だからこそ生き残れたと私は思っています。別に特殊な技術があるわけではありません。部品を全部、人さまに任せて既製品を作るとなると、すぐにライバルが出てきて、過酷な競争を強いられる。しかし、一から作れば、工程数がたくさんあって大変ではあっても、お客さんの要望を敏感にキャッチして小さなロットで作ってみることができます。それが潜在需要を呼び起こして、ある一定の規模になった時に商品化する。試行錯誤しながら、定着した商品が世に出せるものになるわけです。そうした過程で、世に出なかった試作品、商品もたくさんあります」

 その一例として、ワイン専用の運搬車を挙げて下さった。光を通さず、中が見えないような工夫をして作ってはみたものの、商品にはならなかったらしい。

「現場の工場を止めなくても、ちょっとしたものが作れる試作専門のスペースがあります。先に図面ありきではなく、まずイメージしたものを手作りできる。そこからスタートします。図面がないのにどうやって作るの?と聞かれますが、うちは図面がない方が作りやすいんです。図面があるとそれに縛られてしまうので、新しい発想が生まれないんです。自分がほしいものを先にイメージして、そこへ近づけるために試行錯誤を繰り返す。これが駄目なら違う角度から、と実際にやってみて、こっちがいい、となる。ものを作るプロセスが二通り三通りとあるんです」

 お客さんの望みと直に向かい合い、ひとまず効率は脇に置いて失敗の中から正しい方向を見極める。お話を伺っていると、子どもを乗せるための幸福な〝あの乗り物〟に相応しい作られ方だ、という気がしてくる。 

 さて、ようやくここで〝あの乗り物〟の正式な名前が判明した。〈サンポカー〉。もちろん五十畑工業の命名である。実に簡潔で清々しい名前ではないか。・・・お出かけしたい子どもたちがその名を口にしている場面を想像するだけで、自然と笑みがこぼれてくる。

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 ・・・町でサンポカーを見かけるたび、新鮮な驚きを覚えるのは、誰もが思いつきそうで案外思いつかない発想の妙がそこにあるからだ。何より、少し高くなった視線にわくわくし、機嫌よく楽しそうに乗っている子どもたちの様子が、この進化が正しい方向であったことの証拠だろう。

「我々が列車に乗って移動するのと同じ感覚なんでしょう。景色が変わるたび、関心のある側に自由に動けるんです。じっとしているわけもないですからね」

 なるほど、彼らは旅をしているのだ。彼らにとってサンポカーは、未知の場所へ自分を運んでくれる魔法の乗り物なのかもしれない。