ミルクとコロナ

ミルクとコロナ

白岩玄さんと山崎ナオコ―ラさんの、育児にまつわる交換エッセイを読みました。

こちらは白岩玄さんの息子さんの話、印象に残りました。

 

P154

 ・・・実はうちの三歳の息子は、言葉の発達が遅れ気味だ。・・・

 最近は以前に比べるとずいぶん喋れるようになったが、それでも二歳のよく喋る子と同じくらいの語彙力に思える。記憶は年相応にしっかりしているので、過去のことを質問しても、こちらが「ちゃんと覚えてるな」と思えるような答えが返ってくるのだが、使える言葉のバリエーションが限られているし、話し方もたどたどしい。一生懸命何かを伝えようとはしてくれるのだが、内容が支離滅裂で理解できないことも少なくない。・・・

 一方で、息子は今、恐竜に夢中で、ぼくらが驚くくらいに詳しい。文字はまだ読めないはずなのに、絵を見ただけで何の恐竜かを的確に答えるし、毎日のように分厚い恐竜図鑑を眺めては、新しい恐竜の名前を覚えている。人間には情報をインプットする際に、目で見たものを処理するのが上手いタイプ(視覚優位)と耳で聞いたことを処理するのが上手いタイプ(聴覚優位)がいるそうだが、息子は圧倒的に前者なのだろう。・・・

 息子は三歳だが、もうまもなく四歳になるので、この状況をどう考えるかは人によるだろう。同じ歳の子はもっと普通に喋っている子もいて、周りは「全然大丈夫だよ」と言ってくれるが、ぼくも妻も、まったく心配していないと言うと嘘になる。・・・

 ただ、とりあえず現時点では、今のまま様子を見るつもりでいる。そう思えたのには理由があって、ひとつは、妻もそれでいいんじゃないかと同意してくれたからだ。同じ子どもを育てる上で、もう一人の保護者である妻と意見が一致すると、不安はかなり軽減される。ときに意思疎通がうまくいかないこともある息子との接し方も、そのつど話し合って足並みを揃えることで、息子も「お父さんもお母さんも同じことを言っているな」と思うことができるだろうし、何より言葉の発達の遅れという問題から生じる、あらゆる心配事を一人で抱えなくて済むようになる。・・・夫婦というのは考えが一致しないことも多いので、これは地味に大きいことだと思っている。

 もうひとつは、息子を見ていると、言葉自体はおぼつかないが、それは技術の問題であって、伝えたいことはしっかりとあるんだなと感じるからだ。ぼくは仕事柄(なのかどうかはわからないが)、うまく言えないことに対してかなり寛容というか、実際に言葉にできるかどうかよりも、自分の中に伝えたい思いや気持ちがちゃんとあるかどうかを重要視するところがある。それは結局、その思いや気持ちが文章の根幹になるからなのだが、子どもの言葉も、ある部分では同じように考えていいんじゃないかと思っているのだ。特に複雑な感情を他人に伝える際は、的確に言葉を使いこなすのももちろん大事ではあるけれど、そこに思いや気持ちが詰まっていないのなら、それは形だけの言葉になってしまう。大人になればわかることだが、形だけの言葉というのは、使い続けていると心がカラカラに乾いていってしまう。ぼくらの心が潤って、嬉しくなったり、幸せを感じたりするのは、やはり溢れてくる気持ちをなんとか言葉にしようとするときだし、そういう瞬間こそ、人の言葉には力が宿って、聞く側も言葉以上の何かを受け取ることができるような気がする。

 だからぼくは、息子が一生懸命自分の知っている言葉を使って何かを伝えようとしているのを見ると、意味がよくわからなくても「いいぞ」と思う。息子の目を見れば、彼の内側に何らかの思いがあるのは明らかだから、今はうまく伝えられなくても、その思いの方をなくさないようにしてほしいのだ。・・・

 息子の恐竜好きを見ていると、手持ちの言葉では表しきれないほどの大きな気持ちを持ってくれているのがわかってぼくは嬉しくなる。・・・いつか今よりもずっと流暢に話せる日が来るのかもしれないが、たとえそのときが来たとしても、言葉以上の思いや気持ちを持ち続けられる子でいてほしい。