「むしろ、考える家事」がおもしろかったなと、こちらも読みました。
ここまで自分をごまかさずにいるってすばらしいなと思いました。
P120
・・・小さなことなのだが、私が勝手にくよくよしてしまう出来事があった。
保健師と思われる、年配の女性が親身になっていろいろ話を聞いてくれる時期があり、・・・「旦那さんには相談できますか?」「相談?……話し合うことはあります」
「それじゃ、おひとりで子育てしているんですか?」「いえ、夫と二人でやっています」・・・育児をひとりだけで行っていないか、誰かに相談できているか、といったことを、自治体はしつこく聞いてくる。もちろん、ありがたいことだと思う。・・・ただ、私はフォーマットに押し込められているように感じてしまって、息苦しくなる。・・・
とにかく、・・・そういったやり取りのあと、
「旦那さんのサポートがあるんですね」
と言われ、
「はい」
と頷いてしまった。
そのことを、あとあとまで悔いた。くだらない思いだとは重々承知している、でも、「はい」と頷くのではなく、「サポートではなくて、夫は親として普通に子育てしているんです」とにっこり笑って訂正すれば良かった、と何度も考えてしまう。
こういう違和感、つまり、自分の言語感覚では決して使わない言葉で他者からこちらの範疇のこと(家族だとか、生活だとか、仕事に関すること)を定義されて、うーん、ちょっと違うんだけどな、と思うというのは、多くの人が日々感じているに違いない。そして、そういったことに関して、「『はい』『はい』って、その場では適当に言っとけばいいのよ。それで、あとはこっちでやりたいようにやればいいのよ」というアドヴァイスをよく耳にする。しかし、私は、「はい」「はい」と言ったあと、どっと疲れが出てしまう。
些細なことなのだから流せば良い。しっくりこない言葉を自分に当てはめるのも、その場限りのことなのだから、空気を悪くせずにさらりと済ませるのが大人だ。わかっている。でも、私は拘泥してしまう。ぐったりしてしまう。
P150
出産前には、「私も出産したら『自分の時間が欲しい』と思うようになるのかもしれない」と予想していた。
でも、現在、私はそう思っていない。ここにあるのは、自分の時間ばかりだ。「赤ん坊と一緒にいても、私のやりたい世話しかしていないな」と思う。
いや、べつに殊勝な心もちでそう思っているわけではなくて、「最近、美術館に行けていないし、本も読めていない。やりたいことがもっとあるのに、時間が足りないなあ。いらいらする」だとか、「仕事が終わらない。一日が二十五時間とか、一ヵ月が三十二日とか、私にだけもっと時間があったらいいのに。むかむかする」だとか、嫌な感情は抱いている。
でも、赤ん坊の世話も私のやりたいことだし、赤ん坊と一緒のときも私自身として生きているので(この本のタイトルみたいに、母親という役割を気にしておらず、いつでも私自身のままで、特に頑張っていないし)、赤ん坊に時間を使ってあげている感覚は湧かない。
・・・
育児者が、「もっと仕事をする時間が欲しい」「もっと映画を観る時間が欲しい」といった希望を持って、他の家族や家事代行サービスなどと育児や家事をシェアしようとすると、「子どもの面倒を見たくないのだろう」「料理をしたくないのだろう」と誤解される。・・・
いや、違う。やりたいことが多すぎる、というシンプルな状態なのだ。
・・・
細かいことをぐちぐち説明していると思われるかもしれないが、微妙な違いでも、「赤ん坊に奉仕している」「いやいや家事をやっている」と周りから認識されたくない。
特に赤ん坊の世話に関しては、ものすごく面白いので、赤ん坊が大きくなってからも私がいやいややっていたとは思われたくない。
そうして、今が楽しいので、この瞬間ですでに赤ん坊に使っている労力の元は取れているな、と感じている。そこのところも、赤ん坊が大きくなったら理解して欲しい。小さいときに世話したからといって、赤ん坊がどんな大人になろうが私は構わない。
この感じに似たものは、仕事に使っている時間に対しても抱いている。
私の仕事は小説を書くことなのだが、小説を書いている最中に、この先にもう何も残らなくてもいい、書いているときの楽しさで元が取れた、と思うことがある。
P229
・・・私が「選択」ということでこのところ違和感を覚えるのが、「子どもを作るか作らないかを女性が選んでいる」と国が考えているように見えることだ。
・・・
・・・「そもそも人間は『選択』って本当にしているのかなあ?」とも思うのだ。
確かに人生は短くて、仕事にはタイミングがあるし、出産にはタイムリミットがある。生きているとき、やりたいことをなんでもやっているわけではない。何かを行ったときには、何かをできなくなっている。「何かを得たら、何かを失う」は道理だ。
私も、子どもを育てることで、何かを失っているのだろうな、とは思う。たぶん、できなくなった仕事もあるだろう。
だが、しっかり選んでそうなっているのかは疑問だ。
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何かをしっかり選んで、何かをきっかり失えるほど、人生は単純ではない。
・・・
それと、「子どもを持つことを選んだ」という科白に嫌悪感があるのは、つい言い訳に使ってしまいそう、という理由もある。自分の仕事が上手くいかなくなったときに「仕事ではなく、子どもを選んだからだ」と自分を納得させてしまったら良くない。
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仕事ではない部分の人生は、子どもだけではない。介護、自分の病気、支えなければならない家族や友人知人、副業、趣味、ボランティア……、人それぞれだ。「仕事を選んでいる人」「子どもを選んでいる人」「両方を選んでいる人」というカテゴライズは意味がない。誰だって、いろいろなことをやりながら、自分の道を歩いている。
私は決して、二足の草鞋は履いていないし、二つの道も見ていない。私は自分にとってのひとつの道を進んでいると思う。