みんなのために

農業フロンティア 越境するネクストファーマーズ (文春新書)

 人生って面白いなぁ、素敵な人だなぁと思いつつ読んだところです。

 

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 海の向こうから日本にやって来たのは、由緒あるお寺の家に生まれ、仏画師をしていたネパール人のダルマ・ラマさん。日本人の妻との結婚を機に来日し、富山で仏画師として活動していたが、たまたま出会った小松菜生産者から明るく穏やかな性格や手先の器用さを買われて、すべてを引き継ぐことになった。その後、イチから農業を学び、見事に事業を拡大して、農業で母国と富山をつなぐビジネスも始めている。・・・

 

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 ダルマは1973年、首都カトマンズの北東に位置するヒマラヤ山脈の玄関口、シンドゥパルチョーク郡で生まれた。・・・

 歴史あるお寺の息子として育ったダルマは、物心ついた時から父親に「みんなのために生きなさい」と言い聞かされてきた。その影響もあって、高校生になると「社会に貢献できることをしたい」と強く思うようになった。

 当時は今より更にネパールが貧しく、高校に進学するとトイレも黒板もなかった。そこで、ダルマは知恵を絞った。ヒンズー教の大きなお祭りの日、子どもたちは地域の家々を訪ねて歌や踊りを披露する。その際に寄付を募り、自分たちで作ることにしたのだ。・・・

 息子の様子を見て、ダルマの両親はなにか可能性を感じていたのかもしれない。故郷の村では、高校を卒業している人すら珍しい時代に、「大学に行って勉強しなさい」とダルマに言い聞かせた。・・・

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 当時のトリブバン大学は2年制で、学外の活動に励んでいるうちに、あっという間に卒業を迎えた。筆者の感覚では、ネパール唯一の国立大学で経済学を学んだ学生はエリートで、就職先も引く手あまただと思うが、ダルマは大学を卒業すると故郷に戻り、仏画師として働き始めた。そこには、ネパールならではの理由がある。

「当時のネパールでは、人の下で働いていると、バカにされるんです。私のお兄さんは学校の先生をしていたけど、『え、あの人、ひとの子どものお世話してる!』と笑われていました。もし私が企業に就職したら、『あの人、就職してる!』って下に見られるんです」

 この話を聞いて驚き、「それだったら、みんな働かずになにをするんですか?」と尋ねた。その答えにまた、唖然とした。

「だからネパールの人、ほとんど働いてない。今も同じ。そういう悪い環境があるから、ネパールがいつまでも成長できないということが、日本に来て初めてわかりました」

 ただし、あらゆる仕事が嘲笑の対象になるわけではない。例えば仏画師は伝統的な仕事であり、しかもラマ家で代々受け継がれてきたものなので、むしろ尊敬される。・・・

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 仏画を求める人のためにいつもオープンにしているアトリエに、日本人の観光客が訪ねてきたのは1999年のことだった。

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 翌年も、その翌年も、女性がアトリエにやってきた。そのうちに会話も増えて、メールアドレスを交換し、やり取りするようになった。・・・

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 2004年、出会ってから5年後にふたりは結婚。すぐに子どもを授かった。

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 ふたりが最初に暮らした富山市のアパートで、ダルマはすぐに手持ち無沙汰になった。・・・

 ・・・日本に来てから1ヵ月後には、「なんでもいいから仕事がしたい!」とハローワークに向かった。・・・

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 誰かの下で働くとバカにされる文化のネパールから来たダルマだが、会社員生活は思いのほか楽しかったと振り返る。

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 職場の仲間と打ち解け、リーダーにも抜擢されて、日本の生活にもすっかり慣れた……と思っていた矢先の2009年、リーマンショックで会社が倒産。時を同じくして、友人が日本人の仏画師を紹介してくれた。その人から「一枚、描きませんか?」と声をかけられると、それまで眠っていた仏画師の魂に火が付いた。・・・

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「最初に働いていた会社が倒産しなかったら、そのまま仕事をしていたかもしれない。一枚、曼荼羅を描いたらお客さんがどんどん増えて、これから私の好きなことできるぞ!と思いました」

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 それでも会社員時代と比べれば時間に余裕があったから、小料理屋でアルバイトもした。ネパールでは男性が料理をする文化はないが、「日本の料理はどう作るのだろう」と興味が湧いたそうだ。このアルバイト先を紹介してくれたのは倒産した会社の社長だというから、ダルマがいかに富山に溶け込んでいるのかわかる。

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 仏画師としての仕事が順調だったこともあり、2014年、ダルマは妻に「私は好きなことをやります」と宣言した。1階を飲食ができるイベントスペース、2階を仏画のアトリエと展示場にした場所を作ろうと考えたのだ。

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 ・・・こだわりの小松菜を生産する葉っぴーFarmを営む荒木龍憲さん・・・当時、小松菜を作りながら自宅の隣にある納屋をリノベーションして、妻の真理子さんと一緒に、1週間に2日だけカフェを開いていた。そのカフェの2階には、広いスペースがあって、特に使われていなかった。ダルマはカフェで食事をしながら「自分が想像していたことをぜんぶ実現している人がいるんだ!」と心を動かされた。ダルマはカフェにいた真理子さんに自分の計画を話した。すると、初対面にもかかわらず、「ここ、カフェの日以外は使う人がいないから、なにかやりますか?」と言ってくれた。ダルマは即答した。

「やりたいです!」

 実はこの時、ダルマは農業にも興味を持っていた。・・・家の庭でキュウリやジャガイモの無農薬栽培を始めた。

 すると、予想以上においしい野菜が収穫できたので、・・・「農業についてもっと知りたい!」と、持ち前の好奇心に火が付いていたタイミングで、荒木さんのところを訪ねていた。

 ・・・空いている時間帯に荒木さんの手伝いをさせてもらえたら・・・「軽い気持ち」だった。農業を体験したいと話すダルマに、荒木さんは「いいよ」と二つ返事で応えた。

 1週間後に再訪すると、ダルマのタイムカードが用意されていた。あれ?と思いながら、打刻した。「お手伝い」に来たと思ったら、働いた分のお金を払ってくれると聞いて、ダルマは喜んだ。・・・

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 それから、時間を見つけては葉っぴーFarmに通って、荒木さんから小松菜栽培の手ほどきを受けるようになった。・・・

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 荒木さんは自身のノウハウを広く伝えるために、若者の研修を積極的に受け入れてきた。いろいろなタイプの若者と接してきたからこそ、ダルマに指導を始めてすぐに気がついた。この男には、才能がある。

「菜葉の収穫はすごくきめ細かい作業なんです。・・・ダルマさんは日本の男性とは比べ物にならないくらいきれいな仕事をするんです。しかも、研修を始めて何日かしたら、菜葉を採る手も速くなった。彼は器用なんですよ。・・・」

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 ・・・これまで何人か、見込みがありそうな研修生に「継いでみないか?」と声をかけてきたのだが、・・・断られていた。・・・

 ダルマの仕事ぶりを見て「この男は!」というこれまでにない手ごたえを得た荒木さんは、・・・葉っぴーFarmを継ぐ気があるか、ダルマに尋ねた。・・・

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 一方、荒木さんを通じて農業のイロハを学んだダルマは、独自の視点で農業に可能性を感じていた。ネパールでは家族だけでなく、常に大勢の友人、知人と密な関係を築いたダルマは、日本に来た時、知り合いがひとりもいなくて孤独を感じた。・・・

「どうやったら町の人たちと交流ができるんだろう?友だちになれるんだろう?」

 最初のきっかけになったのは、仏画の展示だった。・・・次に料理を始めたら、明らかにその輪が広がり、・・・

 ここで農業が浮上する。葉っぴーFarmの小松菜は地元にもファンが多く、「おいしい」と声をかけてもらうことも少なくない。・・・さらに、近隣の住民と協力してやる用水路の草むしりや掃除など一般的には面倒な作業も、ダルマにとっては交流が深まる楽しい時間だった。

「農業を通して、いろいろな人と交流できる機会を与えてくれるのが、私にとって一番楽しいことですね。荒木さんからいろいろなことを教えてもらって、これならできるなという自信が出てきたので、2回目に誘われた時は、やりますよ、と言いました。やるしかないと思いましたね」