印象に残ったところです。
P68
悲観したり怒ったりすることは決して体によくないといわれているが、ある時ぼくは体調を崩して原因不明の微熱に悩まされている最中に仕事のことで怒らざるを得ない羽目に陥ってしまった。
世田谷美術館での『冒険王』展のカタログの校正刷があんまりひどかったのである。ぼくの怒りの感情は収まらない。結局印刷所を変えることで難を逃れたわけだが、もしここでぼくが猛烈に怒らなかったら、そのまま事は進行してしまっていたかも知れない。そういう意味ではぼくの怒りが事態を好転する結果になり、まずはめでたしということで収まったのである。
だけどこの時のぼくの体調は最悪に近かった。普通じゃ怒る元気もないほど疲れていた。にもかかわらず最悪の印刷を見た時、ぼくの内部が一気に火を噴いたのである。ぼく自身がこんなに怒る自分を初めて見たように思った。ぼくの周囲には十人ばかりの人たちがいたが、彼らはぼくの怒りに心の蓋を閉じているようにも見えた。とにかく怒りまくったのである。
ところが不思議なことが起こった。解決の道が示されることになってぼくの怒りは収まり、平常心に戻った。と同時にぼくの内部から不思議な力が甦って、何日間も続いた微熱もスーッと引き、沸々と体の奥からエネルギーが噴き上げて喪失していた体調も以前にも増して気力が満ち始めているのを感じた。怒りがぼくの体調を一瞬に好転させる結果になった。
これって一体どういうことなんだろう。・・・普通だったら後味が悪いはずなのに怒りによって物事が好転の兆しを見せたからか、なんだか怒ってスカーッといい気分になってしまったのである。
・・・
ぼくの今回の怒りは全て結果よしに繋がって展覧会のカタログの印刷も評判がよく、会期中に何度も増刷を繰り返し、とうとう最終日には完売となってしまうほどの大成功を収めた。あの時怒って印刷所を変更しないで、妥協してしまっていたら、ここまで成果を挙げなかったかも知れないし、また後味の悪い気持ちが後まで尾を引くことになったことだろう。
嫌なことはしない、好きなことだけをするということは自分の意志に忠実であろうとすることである。つまり妥協をしないということである。相手によく見られたいと思う気持ちが妥協を許してしまうことになる。相手にどう見られようとおかまいなく自分の内なる声に従って行動したほうが体にとっても健康なことかも知れない。妥協を重ねているといつの間にか体にくる。そして健康を損なうことになる。健康でいたいと思うなら、妥協はしないことである。他人のために自分が存在しているのではなく自分のために存在しているということに気付き、いい意味での個人主義を貫くことも必要である。
怒りも時と場合によっては物事の好転にもなるエネルギーである。ただしそこには私利私欲がからまっていないという条件がなくてはならない。
P109
ぼくの昔の夢は全然日常的でなかった。空飛ぶ円盤や宇宙人や時には神仏まで現れるかと思うと幽霊まで出てくる。こんな夢が何年も続いた。ところが最近はこの手の夢はピタッと見なくなって、ごく日常的、それも昨日の出来事の延長だったりして日常と夢の区別がほとんどなくなってきた。・・・
・・・夢が日常的になったために無意識と顕在意識が地続きになってしまったのだろうか。そうなると直観の存在も怪しくなる。今までは直観は無意識からの信号だと思っていたのが、無意識がなくなると直観も次第になくなっていく。では芸術のインスピレーションはどうなんだということになる。
「そうなんですよ、問題はそこなんですよね」
どうも昔のように電撃的なインスピレーションってやってこないような気がするのである。そうじゃなくて、「なるようになっていく」そんな感じなのである。非常に感覚的になっている、というか感覚に従っている自分を発見することが多い。・・・閃いたり、考えたりしたわけでもないのに、「こうなっていく」のだ。
だから失敗もない代わりに成功もない。どっちだっていいということになる。「ねばならない」とか手段というものがなくなってしまうのだから、当然目的もないということになる。すると何かあるのだろう?あるのは遊びだけじゃないかなと思う。・・・