原始の感覚を失わずにいたいです。
P77
ブラジルにパンタナールという大湿原がある。・・・
そこに行った時のことだ。・・・
・・・通された部屋の壁には蚊の大群。それをスリッパで一匹ずつ退治。やっとベッドにもぐったと思ったら、暗がりの中、英語で「Good morning」という声が頭の中でしたかと思うと、ぼくの右の側頭部辺りから後頭部の方に、イルミネーションのように光ったさっきの言葉が、レタリングになって流れるように移動していくではないか。
ぼくはちゃんと起きている。夢など見てはいない。そしてハッと気がつくと、ぼくの前方やや上の空間に、赤と黄のストライプのニット帽を被った茶褐色の老人の顔が中空に浮いているではないか。胴はない。だから生首のように見えるが、なぜか全く怖くない。むしろ親愛の情さえ伝わってくる。次の瞬間、頭の中でその人の想念がリアルに伝わってきた。言葉にすれば次のような内容になる。
「ようこそ、私はインディオの精霊だ。あなたの旅行中危険から守ろう」と言ったかと思うと、男の顔のビジョンはフッとかき消された。と同時に、ぼくは睡魔に襲われた。
翌日、民俗博物館に行った。そこで解ったことは、その昔この地にインディオが住んでいたということ。そして、ビジョンの老人が被っていたのとよく似たニット帽が展示されていた。その朝、この旅に参加した様々な職業の人達との朝食の席で、昨夜の体験談を語った。・・・夢でも見ていたに違いないと相手にされないだろうと思っていたが、誰ひとりとしてぼくの話に疑いを抱く人がいなかった。このことをぼくが逆に疑ったほどだ。こんな人里離れた未知の土地では、人知を超えた出来事に遭遇する方がむしろ現実で、われわれの祖先が本来持っていた原始の感覚を近代と共に失ってしまっていたことに反省の態度を示す人達がいたことに、ぼくは何か言いようのない希望を感ぜずにはおれなかった。
P80
一〇年ほど前だったかも知れない。恐らくぼくのアメリカ旅行の最後だと思われる頃だった。一人旅だった。機内では寝つかれないぼくだったが、しばしウトウトしたようだった。
誰かに突然起こされたようにぼくは眼を覚ました。と同時に、急に窓の外が見たくなった。深夜で機内の窓は全部閉じられている。第一、窓外は真っ暗闇だ。にもかかわらず外を見たい衝動にかられた。閉じられたシャッターを開け、暗闇の奥に目を凝らした。外には灰色の雲海とその上空の闇には地上では観察できないほどの数多い星が瞬いていた。凍てついた窓に額を当てて機内の天井の小灯が窓に映らないように頭から毛布を被って明かりを遮った。こんな深夜に機内の窓から外を眺めている乗客は、恐らくひとりもいないだろう。
と、その時、雲海の彼方から突然光の柱が上昇していくのを発見した。・・・光の柱はどんどん上昇したかと思うと、まるでカーテンを引くように、巨大な白い布に変化した。その巨大な布は、飛行機と並走しながら泳ぐように走りだした。
「オーロラだ!」
まるでディズニー映画で白いドレスの袖を広げて空を飛ぶ妖精のように、ドレスの裾の端がどこにあるのか判らないほど、その白いドレスはどんどん伸びていくのだった。ぼくは生まれて初めて見るオーロラの光と変化していく造形に、全身鳥肌が立つ想いだった。そしてみるみるうちに空全体がオーロラに覆われてしまった。・・・なんという天上の神秘だろう!
・・・
こんな幸運を独り占めできることにぼくは強運のようなものを感じ、この神秘をカバンの中に秘めて持っていたスケッチブックにまるでアニメの原画を描くように、素早く何枚も何枚も書き綴った。これまで飛行機には何十回も乗っているのに、スケッチブックなど持参したことはなぜか今回が初めてだった。だから、このことがかえって不思議でならなかった。オーロラは機の上空を完全に覆い、機は巨大なオーロラの中を飛行していたのだった。オーロラを透かして星が瞬いており、その辺りを流星が走るのが見える。現実というよりファンタジーの世界だ。これは奇蹟だ。それにしてもオーロラの発生の瞬間に眼が覚め、同時に窓の外を眺めたくなったこの偶然に、ぼくは思わず神に感謝したい気持ちに襲われそうになった。
・・・
死ぬまでに一度オーロラを見たいと思っていたが、まさかオーロラと同じ位置から見るなんて思いもよらなかった。「見た」というより、「見せられた」という気持ちが今も強い。目を閉じると、あの時の映像がそのまま脳内視できる。そして動いてくれるのである。