普通の壁

ガチガチの世界をゆるめる

  普通の壁、なんてうまいこと言うんだろうと思いました。

 

P174

 社会人になったとき、ぼくは「マイ・ベスト・喜怒哀楽」を整理してみました。

 これまでの自分の人生で、一番喜んだこと、怒ったこと、悲しかったこと、楽しかったことを、それぞれ思い出してまとめてみたのです。

 ・・・

 自分の感情を客観視するために始めた「マイ・ベスト・喜怒哀楽」でしたが、途中でぼくは面白いことに気がつきました。

 誰かに「マイ・ベスト・喜怒哀楽」をやってもらうと、その人らしさが必ず見つかるんです。

 つまり、「マイ・ベスト・喜怒哀楽」とは、普通じゃない自分を掘り起こしていく作業だったんです。

 ぼくはよく企業研修をやるのですが、入社して10年、20年経って、いろいろと悩んでいるみなさんに「マイ・ベスト・喜怒哀楽」を書いてもらいます。長年勤めてきたけど定年はまだまだ先、でも自分ならではの強みが見つからない。ある意味で「普通障害」のあるみなさんに、自分のこれまでの人生を見つめ直してもらうんです。そうすると、自分の中の普通じゃないものが、誰でも見つかります。

 たとえば、人生で一番楽しかった経験が「ミスチルのライブへ行ったこと」だったとします。単体でそれだけ取り出すと、他者ともかぶるエピソードかもしれません。でも、それに「一番悲しかったこと」「一番怒ったこと」「一番喜んだこと」を掛け合わせると、4項目すべてが他人と被ることは絶対にありません。つまり、喜怒哀楽の掛け合わせこそがあなたの人生で、そこであなたのことを判断しましょう、ということなんです。

 普通障害で苦しんでいる人はみんな、「私なんて本当に普通です」と言うんですが、それは「ミスチルのライブ」の部分しか見ていないからです。喜怒哀楽すべての経験の総体が自分だと捉えてあげましょう。そうすると、「普通じゃなかった、私、変態でした!」ということに気づけます(笑)。

 現代のように「特別であること」が求められる時代にあって、「普通障害」という悩みは大きいと思います。でも、その悩み自体、「普通」の呪いに囚われているだけなんです。注意深く観察してみると、確かにみんな普通だけど、実はみんな普通じゃない。みんな違って、みんな異常なんです。

 このように、「マイ・ベスト・喜怒哀楽」は人を翻訳する作業、その人自身も気づいていない何かを言語化する作業とも言えます。

 みんなが普通じゃない自分を発見することが、新しい普通の発見や、普通の範囲を広げることにつながっていきます。その作業をやらないと「これまでの常識だった普通」という、狭い部屋の中に閉じ込められたままで、息苦しい。だったら、窒息する前に部屋の模様替えをして、新しいドアをつくって、斬新な間取りにしてしまえばいいんです。

 目指すは、自分の中の変態性の発見。みんな立派な変態だ、という気づきなんです。同調圧力を笑いながら打ち破りましょう。

 ・・・

 ・・・障害者は「普通じゃないこと」と戦ってきていて、健常者は「普通であること」と戦っているとも言えます。つまり、ベルリンの壁ならぬ「普通の壁」が両者の間に立ちはだかっていて、一方は壁をよじのぼって東へ行こうとしていて、もう一方は西へとたどり着こうとしている状態です。つまり、交わりそうで交わらない。ここに大きなジレンマが発生しているんですね。

 ・・・

「普通の壁」を打ち砕くには、相手の普通を自分の普通に加えていく。もう、これしかないんですね。「普通」をゆるめることが必要なんです。普通が拡張されると、あっと言う間に、平行線をたどりがちな障害者と健常者の壁は崩れ、重なりが生まれます。

 そのための、ある種の「リハーサル」として、ゆるスポーツは、スポーツごとに「違う普通」を設定しています。

 たとえば、「緩急走」というゆるスポーツでは、座ったままスポーツをするイスリートであることが普通ですし、「ハットラグビー」ではかぶった中折れ帽子にラグビーボールを載せているのが普通です。

 そうすると、複数競技をやってもらうと普通の定義が次々と揺らいで、なんかもう「みんな普通で、みんな普通じゃない!」ということが体感的に理解できます。このゆる化を、もっと社会全体に広げていきたいんですね。

 みんなが「自分の普通は絶対ではない」「あの人の普通って面白そうだから、自分の人生にインストールしてみようかな」となることで、一気に潮目が変わって、再び社会はバラエティ豊かになって、やがて普通が世界から消えてなくなるんじゃないでしょうか。