続きです。この「腹をくくる」ということ、最大の壁は自分の感情である、というところ、ほんとにすごいなぁと思いました。
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・・・私たちは、ロシアから帰港したわずか十日後、今度はスペースシャトルのミッションスペシャリストの資格を取るために最低二年間、ヒューストンへ派遣されることになる。
私のロシア滞在中に、私の長期海外滞在で父子家庭となることを余儀なくされ、親の介護も重なって心身共に消耗した夫は、アメリカ行きの前に、ついに会社に辞表を出した。
「運用管制官になるのが夢なんだ」
とプロポーズの時に、目を輝かせながら語った夫が、その夢を一時中断したのである。
ロシアでの訓練中は夫に負担ばかりかけていたから、今度のアメリカでの暮らしは私が娘をきちんと看る、と固く決意していた矢先だった。
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夫のアメリカ生活は、いきなり障害にぶち当たる。
実は、私のアメリカでのビザは政府外交官用のビザであり、夫はその配偶者のビザだった。・・・
そのため就労許可が下りないので、・・・アメリカで仕事をするどころか、大人としてはまったく認めてもらえない状態となる。
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八方ふさがりの状況の中、夫は躁とうつの状態を繰り返すようになっていった。
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このときの私は、中間管理職のような状態とでもいうのだろうか。組織の立場、夫の立場、私の立場、それぞれの異なる立場をどう折り合いをつけていったらいいのか。頭を悩ます日々が続いた。
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なぜそこから、いまの状態にまで立ち直ることができたのか?
よくみんなに聞かれる質問だが、これといった特効薬はなかった、というのが正直なところである。
アメリカに渡ってから数年、夫の辛さを改善しようと、板挟みになりながら私は私なりに最大限努力したといえる。・・・もちろん周囲の力を借りながらではあるが、夫との関係を修復したいという一心で、極限状態まで頑張ったと自分では思っている。
だから、夫が日本に滞在している間に離婚調停を申請したとき、私は離婚を決意した。・・・
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このどん底の状態を乗り越えたときの「収穫」だったのが「腹をくくる」という感覚を得たことだったかもしれない。
いろいろな問題はすべて自分に責任がある。そう思うと、気持ちが楽になったし、事態を客観的に見られるようになった。
・・・時間をかけて二人で話し合いをした。
私はもう、腹をくくっていた。仕事のことも、彼の辛い立場も、娘のこともいろいろ考えた。世の中の最大の壁は自分の感情である、と書いてあるのをどこかで読んだことがある。その通りだと思った。腹をくくるということは。その感情の壁を越えることなのかもしれない。
三十代の働き盛りに自ら職を手放すということは、とてつもない辛さなのだと思う。辛い訓練は何ですか、と私はよく訊かれるが、一番辛いのはサバイバル訓練ではない。訓練したくても事故や諸々の事情で訓練できないときだった。訓練はどんなに厳しいものでも、できているときは幸せだった。だから、自ら手放す決断をする、ということは勇気がいることだったと思う。・・・そんな夫の決断に敬意を払おうと思った。
その後も一筋縄ではいかなかったが、そうやってお互いに壁を越えていった結果が、夫と娘と共にひとつ屋根の下で暮らせている今につながっている。何が正解かは分からないが、当たり前のような一日一日に感謝せずにはいられない。