前向きなあきらめと、やさしい妥協と、心からの敬意

もうあかんわ日記(ライツ社)

 このイマジネーション生物のアイディア、「そういうことばかり思いついてしまう」って、やっぱりこの方の視点や発想はすごいなぁと思いました。

 

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 いくつかの物件を見てまわるとき、わたしの視界には母がくっきり浮かぶ。落ち着いてほしい、母は死んでないので、霊の類ではない。拡張現実(AR)みたいに、いつの間にか母が景色になじむのだ。

車いすに乗っている母が利用できるか」

 はじめて訪れる場所では、無意識に想像している。

 車いすに乗っている人といっても、それぞれぜんぜん違う。同じくツッコミを生業とする人でも、どつきツッコミと無視ツッコミでは行動からしてぜんぜん違うし、ネタも相方も変わる。わたしが好きな伝説のツッコミは、上田晋也の「阿藤快加藤あいくらい違うよ」だ。しびれるぜ。

 それと同じで、車いすに乗っていても、ちょっと歩ける人もいれば、母みたいにまったく歩けないし力すら入らない人もいるわけで。

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 ちょっと話が変わるけど、ユニバーサルデザインバリアフリーを「だれもにとって便利で快適で安心なもの」と説明する人がいるし、わたしもかつてそうだったが、いまは「そんなもんねえぞ」と言い切る。

 点字ブロック視覚障害者にとって便利で安心だが、でこぼこしているので車いすやベビーカーを使う人にとってはガタガタして不便だ。だれかにとっての便利は、だれかにとっての不便。だれかにとっての幸せは、だれかにとっての不幸。

 ユニバーサルデザインとは、「だれもにとって便利で快適で安心なもの」ではなく、「前向きなあきらめと、やさしい妥協と、心からの敬意があるもの」だと、わたしは思う。

 そりゃみんなにとってパーフェクトなものを、人間は目指さなければいかんのだけど、何億光年かかるかわからん。あきらめと妥協と敬意は人にしかもてない、強い意志だ。

 この話をしはじめると熱くなってしまうのだけども、なにが言いたいかっていうと、母が利用できる家や店を探すのは、けっこう難しいのだ。

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 10センチの段差は無理だけど、5センチの段差なら1人で車いすの前輪を浮かせて乗り越えられる。なので「玄関に段差なし」という物件を指定すると、本当は候補に入る物件までリストから消えてしまう。

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 ・・・幅や高さのセンチ的にはNGでも、ちょっとした旋回スペースがあれば、例外的にいけることも。本人または家族や親友に同じ状況の人がいて、物件を直接見て、やっと気づける細かさである。非効率的すぎるので、なんか、生物をつくりたい。

 さすがに生きてるものをつくると鋼の錬金術師的な課題が発生するので、想像上のイマジネーション生物的な。立体映像でもいいけど。

 車いすくらいの背の高さで、全体的にかっちこちで小まわりがきかなくて、手足がダバダバしてて、よく転んでちょっと愛らしい、小さななにか。そういうイマジネーション生物を、そのへんに放しまくって住まわせていれば、だれでもホッコリしながらいつの間にか、そういう視点を身につけられる。かわいい。願わくばモコモコであってほしい。

 1人で電車に乗っていると、そういうことばかり思いついてしまう。

 今日は物件の手続きをいろいろやったあと、母のちょっとしたリハビリにつきあって、外へ散歩しにいった。

 帰ってきたら、ちょうど時同じくして作業所から帰ってきた弟から「ばかたれ!」とわたしだけが叱られた。

 ばかたれなんて言葉をどこで覚えたのか驚愕したのち、なんでそんなこと言われなあかんねんと怒りがふつふつとわいてきて、あわや乱闘かと思いはじめたとき。

「ママ、びょーき!そとあかん!」

 わたしが病気の母を連れまわしていたように見えたらしい。

 母が「ママは大丈夫やで、ありがとう」と言うと、弟は「ああ、ほんまか。よかった。だいじょぶか?じゃ、おきなわいくか?」と答えた。

 沖縄は、まだ行けへんな。