取材ではなく付き合い始めることになった辺りのお話、それまで著者が知っていた世界にはいなかったマークという人について、こんな風に書かれていて、面白かったです。
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マンハッタンを出るのに大渋滞に巻きこまれ、四時間遅れでカリカリしながらホテルに着くと、マークはレセプションデスク脇の椅子の背にもたれ、農場でかぶっていたのと同じ大きな麦わら帽子を顔にのせて居眠りをしていた。・・・ほっとしたのも束の間、こみあげてきたのは屈辱感だった。思いかえしてみるに、初めてともにした夕食で二杯目のマティーニ注文を決心し、そんなつもりはまるでなかったのに結局言い寄ったのはこのわたしのほう、という歴史的事実に至った原因が、ほかでもないあの麦わら帽子にあったことは、まちがいない気がする。
深く考えさせずにはおかない、心地よいことこのうえない「ライフスタイル選択講座」ともいうべきものが始まったのは、その晩からだった。知り合ってみると、マークは一度も煙草を吸ったことがなければ酒も酔うほどには飲まず、麻薬に手を出したこともない。女遊びとも無縁の人だった。食生活は健全そのもので有機生産物が中心。大人になってからはほぼ毎日のようにきつい肉体労働をして過ごしてきたという。これまで出会ったなかで、いちばん健康な男であることはまちがいなかった。世界平和も大事だし、ホームレスをなくすのも大事だけれど、私の願いはこうだ―すべての女性が一生に一度は、煙草も大酒も飲まない、キスのしすぎやポルノの見すぎで腑抜けになったことのない、スポーツジムではなくまっとうな仕事で鍛えあげた、人間が持つ生物としての側面を恥じることのない男の人と、つきあうことができますように。
・・・これは人生の地殻変動の始まりなのだと認めることにした。・・・
もうひとつの新しい世界は「食」だった。マークは料理ができる。・・・十一のころ、せっかく作って出した料理に家族が文句ばかりいうのに腹を立て、お母さんがストライキを起こしたことがあったらしい。そこで妹といっしょに家族の食事を作りはじめた。・・・マークは独学に励んだ。有名なジュリア・チャイルドのフランス料理の本を読み、うまくいくと、さらに野心的になった。完璧なスシづくりに熱中し、中学に入って好きな女の子ができると、七品のフルコースをごちそうした。・・・
というわけで、高級フランス料理を、わたしはトレーラーで食べることになる。料理で彼は誘惑してきた。それが求愛行動だった。・・・そして恋に落ちたきっかけは、シカのレバーだった。
・・・
レバーなんて見るのもいや、という人がよくいるが、わたしの母もそのひとりだった。だから断じて口にすべきではないものという思い込みが、娘のわたしにもあって、一度も味わったことがないまま、このときを迎えたわけである。・・・それが、あの最初の、味わい深いひとくちの驚きと喜びにつながったのだろう。食感は野生のキノコのようで歯ごたえがありながら柔らかく、たしかに独特の風味があって、・・・さらに感じたのはべつのなにか、もっと根源的なもの、渇望というか、体の叫びだった。食べなさい、必要なんだから。食欲の賢さ、加工食品という雑音をとりはらって耳をかたむければ「健康食」と「美味」に垣根はないことを、初めてそれとなく知ったのはこのときだった。・・・