同じ位速く走れる短距離選手でも、そんな違いがあるんだとびっくりしたエピソードです。
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・・・川本監督は、ACTN3を始めとした遺伝子タイプの違いが、実際に、選手の体にどのような違いを生み出しているのか?それを、自身で突き止めたいと考えた。
・・・川本監督から、ある練習メニューを利用すれば、選手の遺伝子のタイプの違いが、明確に現れる可能性があると聞き、その現場を目の当たりにすることができたのだ。
その練習メニューとは、一〇メートル+六〇メートルのダッシュ走だ。
これは、一〇メートルの助走距離をとり、その後の六〇メートルを、タイムを測定しながら全力で走る練習である。一本一本の間には、九〇秒間の休憩を挟み、全部で六本ほど繰り返す。
瞬発力と共に、ダッシュを維持する持久力にも、刺激を与える練習だ。
川本監督によると、この練習はとてもきついため、「苦手な選手は六本目になるとほとんど走れなくなる」という。
遺伝子情報をトレーニングに利用する際には、当然、遺伝子タイプの違いが、選手の体にどのような変化を生み出しているのかを知らなければならないと言う川本監督。
そこで、それを解明する手掛かりをつかもうと、選手にとっては最も辛いという、この一〇メートル+六〇メートルの練習を行い、その際に、乳酸値を始めとする様々な値を測定してみることにしたのだ。
この測定は、川本監督の友人でもある、東京大学陸上部の元監督、八田秀雄教授の協力を得て、行われた。八田教授は、スポーツ生理学を専門として、長年研究を続けている研究者であり、陸上界では知る人ぞ知る「乳酸」の権威である。
八田教授は、この乳酸について自著で次のように書いている。
「乳酸というと、漠然と疲れたときに溜まっているものと思っている方が多いでしょう。乳酸はとても悪いものだ、と思われてしまっています。これまでの一般的な説明では、乳酸は運動のときに体内に酸素がなくなるので多くできるとされ、酸である乳酸ができることが体内を酸性にして、疲労を起こすといった程度の理解がされてきています。あるいはもっと漠然と、『酸=疲労』という程度の方も多いのではないかと思います。(中略)
しかし、『乳酸』とは、人間の体で最も重要なエネルギー源である糖を利用する過程でできるものであり、糖そのものでもあるのです」
つまり、乳酸とは、糖としてエネルギー源にもなり得るもので、これまでの「乳酸=疲労」といった観念は、むしろ過去の誤った認識だと、八田教授は言う。
「・・・乳酸は非常に強度の高い運動時には疲労の一つの原因になるのは事実ですが、疲労を乳酸だけで説明づけてしまうのはおかしなことです」
今回の測定で、川本監督と八田教授は、乳酸が「エネルギー源になり得る」というポイントに注目した。そして、この乳酸をエネルギーに変える時に、重要な役割を果たすミトコンドリアの働きにも注目した。
先述した通り、・・・私たちは、ACTN3遺伝子が、「CC型」のマウスに比べ、「TT型のマウスの速筋繊維の方が、ミトコンドリアの有酸素性代謝が活発となり、高い持久力を有している可能性があることを取材した。
・・・
測定は、・・・福島大学のトラックで行われた。
参加したのは、ナチュラルアスリートクラブに所属する日本を代表する四人のスプリンターと、福島大学陸上部の選手二人の、合わせて六人。
違いを明確に把握するため、CC型の選手一人とTT型の選手一人がペアを組み、三つの組を作って測定を行った。
・・・
測定の直前、私は、川本監督に「どのような違いが出ると思いますか?」と尋ねた。
すると、川本監督は真剣な表情でこう語った。
「僅かな違いしか出ないと思うんですよ。・・・ただ、その小さな差こそ、スポーツ界にとってはすごく大きな差となるかもしれません。・・・」
数時間後、この川本監督の言葉はいい意味で裏切られることになる。
まず、典型的な違いが現れたのは、TT型の千葉麻美選手とCC型の栗本佳世子選手が走った組だった。・・・
一本目。千葉選手と栗本選手は、ほぼ互角の走りを見せる。九〇秒の休憩を挟んだ二本目も、ほぼ同じスピード。
しかし、三本目から、CC型の栗本選手が大きく遅れだした。カメラの横で二人の走りを見ている私にも、栗本選手の足の回転が明らかに遅くなっていることが見て取れた。
・・・その一方で、TT型の千葉選手は表情も変えず坦々と走り続けている。
最後の六本目。千葉選手のスピードはほとんど落ちなかったが、栗本選手は足を動かすのがやっとという状態でゴールした。
タイムを見ると、違いは歴然としていた。・・・
そして、乳酸値にも大きな違いが見られた。
栗本選手は、一本目から乳酸値が、急速に上昇しているにもかかわらず、千葉選手は、・・・二本目以降に上昇はしたが、非常に緩やかな角度での上昇だった。この違いは、驚くべきものだった。
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千葉選手は、六本よりも多く走れるという実感を持っていた。しかし、それと同時に、足をもっと速く動かしたくても動かないため、「スピードが一定以上には上がらない」というもどかしさを抱えていた。
一方の栗本選手は、一、二本目は、ダッシュも効き、「スピードも一定以上に上げられる」反面、三本目以降は、急激に足が動かなくなる感覚に陥ったという。
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つまり、CC型は一本目から、自分の限界に近い速さを出しきることが出来るが、そのスピードを維持することができない。一方、TT型は、自分のイメージよりもスピードを上げることが出来ない一方で、本数を重ねてもスピードを維持できるという傾向が見られたのである。
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川本監督も、この結果を見ながら「手応えあり」という表情でこう語った。
「今回は、遺伝子を調べて、選手の特徴がより正確に分かりました。普段はここまではっきりとは分からないわけですよね。だから、暗中模索の中で、トレーニングを組んだり、闇雲に種目を決めたりしている。でも、今後は、遺伝子のタイプによる違いが分かったことで、最適なトレーニングの方向性が見えてくると思うんです」
続けて、川本監督は、指導者として、自らを省みるように、こう語った。
「本数を何本も重ねて、スピードを維持する能力をつける練習は、短距離でも結構あります。
でも、過去の練習をふり返ってみても、確かにCC型の選手は、本数を重ねるごとに、走れなくなっていました。
ただ、選手がそういう練習に弱いと、僕らコーチは、『根性がない』とか、『気持ちが入っていない』と言ってきました。しかし、それは、選手にはかわいそうなことを言っていたということが、今回分かりました。つまり、気持ちなどではなく、筋肉の特質として走れないんだと。今回の測定で、それが分かったので、これからは無駄な練習はしなくていい。今日の練習でいうと、CC型の子たちは本数を少なくし、さらに一本一本の間を長く休ませて、セットを組んであげた方が、CC型の選手の能力を開発するだろうし、逆にいうと、TT型の選手は、同じ練習方法では物足りなさがある。つまり、タイムをみながら、うまく本数を増やしていって、その子の能力を引き出すことが必要となるでしょう。
みんなが同じ練習をするのではなくて、それぞれ、個人個人に合ったトレーニングを組み立てなくてはいけないということがよく分かりました」