たくましさ、開花

お見合い35回にうんざりしてアメリカに家出して僧侶になって帰ってきました。 (幻冬舎単行本)

 この流れも面白すぎます・・・。

 

P48

 言葉が通じない海外で生き抜くためには、お金という名の道具が必要。・・・

 そんな当たり前のことには、出国前に気づいてくれと思いますが、勢いだけでアメリカに渡った私には、そこまで考えが及ばす。嗚呼、愚かである。が、愚かであったおかげで、そして、お金がなかったおかげで、私自身も知らなかった潜在能力が開花したのです。自分で言うなとツッコミたいですが、私自身驚いたことだから致し方ありません。では、何が開花したのか?

 それは、「たくましさ」です。

 もうねぇ、びっくりしました。こんなに、たくましかった?って。あれ?私って、お嬢さん育ちじゃなかった?って、あくまで自己申告ですが。

 ・・・

 その強さは内面だけでなく、外面にも表れました。肌が弱く、セーターはカシミヤ一〇〇%、もしくはアンゴラ一〇〇%でないと、絶対にダメだった私。それが、どうでしょう。

 ウールであろうが、アクリルであろうが、かゆくも、痛くも、肌荒れが起きることもなく。そうして環境に応じて変化する肌に、人体の不思議を見るようでした。肌でさえ劇的な変化を遂げるのですから、内面のたくましさは言うに及ばずです。

 ・・・

 アメリカでは色々な仕事をしました。・・・

 ・・・日本語教師もしました。資格を持っていなかったので、日本語教師というのも申し訳ない思いがしますが、友達が見栄えのするチラシを作ってくれたおかげで、そこそこ盛況。他にも、日本から来られた観光客の方向けのお土産屋さんで売り子のお手伝いもしました。そして日本語と関係なく働いたのが、ホテルのフロント、レストランやカフェに、自分が通っていた語学学校での受付事務。面白いところでは、おせちを作って売ったりもしました。

 そもそも、なぜおせちを作ったのか?

 簡潔にいうと、仕事を探していた→たまたま年末だった→おせちの広告を見て、私の方が上手く作れると思った、だから作った。

 もうねぇ、繰り返しですよ、「This is a pen.」ができるから英語が話せると思いこんだ、あの繰り返し。家でおせちを作るのとは、ワケが違います。しかし、なぜか本人は「できる!」と思いこんでいる不思議。

 それは渡米から九ヶ月が経ち、暮れも押し迫った一二月のことでした。金銭的にかなり追い込まれていた私は、日本町の日系スーパーへ向かいます。・・・

 何かいい情報はないかと掲示板を見ると、ふと目に入ったおせちの広告。おせちなのに、お煮しめの野菜がまさかの乱切り。

 これはあきまへん。人参は梅に、筍は亀に切っておくれやす。

 そこで、うかつにも思ってしまったのです。

「うちの方が、絶対にええもんが作れる!」と。
 思いこみの力は恐ろしく、やってしまったおせち作り。

 早速スーパーで食材の値段を調べ、それを基にメニューを考えて試作。そして試食会を行い、メニューを決定。・・・そして価格を決め、絵心のある友人に頼んでポスターを作成。・・・ポスター作りと同様、宅配も車のある友人に手伝ってもらいますが、その他は全て一人です。気合いで取った注文、二六件。そう、二六組のおせちを一人で作るのです。

 今となっては、なぜ作れると思った?と、過去の自分を小一時間ほど問い詰めたい、そんな思いがするほどの大変さ。

 まず、おせちを詰める容器探しから難航。続いて、買い出しで撃沈。車もないのに、大量の食材を買いに行くなど、所詮ムリな話です。が、言い出した以上、やらねばならぬのです。少しでも安くて良い食材を求めて、サンフランシスコ中のスーパーや市場をバスと徒歩で回ります。

 ・・・

 やっとのことで家にたどり着き、休む間もなく下ごしらえ。時既に一二月二九日。・・・そう、時間がないのです。せめて野菜の飾り切りだけは二九日のうちに終わっておきたいと、人参を梅に、筍を亀に切っていきます。と言いましたが、梅だけでも軽く一〇〇個以上。・・・

 もうねぇ、包丁を持つ手が大変。指先はオレンジ色に変色するし、おまけに右手中指の第一関節と第二関節の間に包丁の背があたって皮がむけ、血が出てくる。・・・手当をして、アレして、コレしてと、ドタバタ。筍で六〇匹近くの亀を作り、さぁ下茹でしようとして気づいた。鍋がない。

 …………。お願いだから、そういうことはもう少し早く気づこうと、自分を説教したい気持ちをグッと抑え、携帯電話を握りしめる。業務用とはいわずとも、そこそこ大きなお鍋を数個、ここまで持って来てくれる人はいないか?と、Aから順番にアドレス帳を見ていく。本当にゴメンなさい!

 だけど、今は詫びている時間も、躊躇している時間もないのだよ。夜にもかかわらず厚顔無恥にも電話をし、鍋確保。一事が万事、その調子。

 ・・・調理を始めて二日目、つまり徹夜二日目の大晦日の夜には、あまりの疲労で、出し巻きを作りながら寝る始末。

 ・・・

 その時、三〇歳。人生で命をかけてやり遂げたことは、このおせち作りだけ。そう思えるほどにやり切った、一大プロジェクト。自分で言うのも何ですが、好評でした。

 これをきっかけにして、地元の公立小学校に講師として招かれ、保護者と生徒向けに特別講義を行うことに。講義内容は、日本の文化としてのお正月と、お正月を代表するおせちについて。その翌年にも懲りもせず、またおせち作りを行い、そしてその翌年にはロスアンゼルスのある業者から、全米で売りましょうと取引のお話をいただきました。結局、そのお話にはご縁がなかったのですが、もしあの時ご縁があったら、今頃、アメリカでお弁当屋さんをしていたかもしれません。