近所を旅できる

人生はどこでもドア: リヨンの14日間

 コロナ禍で、近所を旅できるようになった、という方も結構いるかも?と思いつつ読んだところです。

 

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 これまで、そんなワールドワイドな人になるためには、語学力や、情報や、コネや、お金が必要なんだと思っていた。だから若い頃はそういうものを手に入れようとそれなりに頑張っていたけれど、さすがに中年を迎えた頃には、凡庸な星の下に生まれた私にはそんなものは手に入りそうにないのだと諦めの気持ちが9割以上を占めるようになった。で、がっかりしていた。でも、そもそもそういうことじゃなかったのである。

 必要なのは語学力でも情報でもコネでもお金でもなく「自分」だったのだ。大したことのない自分、ダメな自分。地球の裏まで行ったからといってそんな自分がひっくり返るなんてことはない。いつもやっていないことが旅行したからといってできるわけじゃない。それを認めればよかっただけのことなんだ。で、どこへ行こうともいつもやっていることを一生懸命やればよかったのである。

 簡単なことだ。

 でも、その簡単なことが難しい。それが旅なんだと思う。

 日本にいれば無意識に何気なくやっていることが、国境を越えればすべて「何気なく」はできない。うまくいかないことばかりだ。ジタバタするうちに、自分の根っこみたいなものが見えてくる。本当に自分が求めているものは何なのか。

 だから私は旅の後半から、無性に自宅に帰りたくなった。

 逃げ帰りたかったわけじゃない。そうじゃなくて、今なら、最高にうまく「近所を旅できる」気がしたのだ。

 リヨンに行ってよくわかったのは、結局、私が求めているのは「人に喜んでもらうこと」だったってことだ。でもね、フランスでそれをやるのはかなり難しかったんだよ。やっぱり言葉ができないからね。頑張ったけどね。ちょっとはできたけどね。でも日本だったらもっとうまくやれる。私が人により喜んでもらえる場所は、確実に、リヨンじゃなくて日本だ。我が日本でもリヨン滞在中に匹敵する真剣さで頑張れば、私が行くところ行くところ、花咲か爺さんのように人を幸せにできる気がした。リヨンが私を鍛えたのである。

 だから繰り返すけれど、いつもやっていることを一生懸命やればいいのだ。少なくとも「やろうとする」ことはできる。それができれば十分ではないか。だって旅が終わった時には自分は確実にバージョンアップしているのである。そんな自分を抱えて次の旅に出る。そうしたらまた自分はバージョンアップする。そうなれば絶対日常が変わる。人生が変わる。

 まあ我ながらずいぶん大げさなことを言っている気がしますが、多分これは本当のことなのだ。