いろんな言葉

いい言葉が、60歳からのいい人生をつくる

 昨日につづいてこちらの本も、いろんな言葉が載っています。

 時代も分野も様々な26名の方のお話、興味深く読みました。

 

遠藤周作さん

P12

 ・・・尊敬する小説家フランソア・モウリヤックの最後の作『ありし日の青年』を読んでいたら、次のような言葉にぶつかった。

「ひとつだって無駄にしちゃあ、いけないんですよと、ぼくらは子供のころ、くりかえして言われたものだ。それはパンとか蝋燭のことだった。今、ぼくが無駄にしてはいけないのは、ぼくが味わった苦しみ、ぼくが他人に与えた苦しみだった」

 この言葉を読んだ時、思わず「これだな」と思った。私が会得したものがそのまま、そこに書かれていると知ったからである。

 ひとつだって無駄にしちゃいけない―と言うよりは、我々の人生のどんな嫌な出来事や思い出すらも、ひとつとして無駄なものなどありはしない。無駄だったと思えるのは我々の勝手な判断なのであって、もし神というものがあるならば、神はその無駄とみえるものに、実は我々の人生のために役にたつ何かをかくしているのであり、それは無駄どころか、貴重なものを秘めているような気がする。

 これを知ったために、私は「かなり、うまく、生きた」と思えるようになった。

 

大島渚さん

P136

 ・・・私がもう一度自分をふりかえったのは四十歳の前後だったろうか。私は切実に、人に愛され人を愛せる自分になりたいと思ったのだった。人生は所詮人と人との関係である。それさえうまくいけばよい。

 その年齢になってはじめて私は自分以外の他人のことが目にはいりだしたということだろうか。私ははじめて人の気持ちがわかる男になったと言おうか。

 そしてそれはどうやらうまくいったようである。四十歳を過ぎて私は新しい私になったようである。

 しかし、考えてみると私の本質そのものはあまり変わっていないのである。・・・

 新しい私に変わろうと夢みることはすばらしい。そうした夢がなければ人は生きていけないのかもしれない。と同時に、そういう新しい私というのは決して自分の外にあるのではなく、自分の中にあるのかもしれないのだ。むしろ人間は、自分の中の新しい私、新しい可能性を一生発見できずに終わるほうが多いのではないだろうか。

 まず少年少女のころを思ってみるといいのだ。現在の自分のよさもわるさも、少年少女時代の鏡に照らしてはじめてわかるのである。かつて自分の中にあって、今は失われてしまったものも。

 みつめる自分がどんなにみにくいものであっても、そのみにくさが自覚できるのは、すでにいいことなのだ。そのみにくさを通じて必ず自分のよさを発見できるはずである。人の一生は美しい自分に出会うための旅なのである。