シンクロニシティ

見えるものと観えないもの―横尾忠則対話録 (ちくま文庫)

 こちらは島田雅彦さんとの対談の中で出てきた話です。

 

横尾 ・・・坐禅中に突然文字が現われたことがあるんですよね。白銀色に文字が光っているんですよね。目の前三十センチ位のところに一センチ五ミリぐらいの大きさですが、それがちょっと斜めでお経に書いてある楷書体の文字で、最初に「福」というのが現われて、「福」が消えたかと思うと「寿」が現われる、それから「安」です。「福寿安泰」が現われたのだけれども、四文字現われるということはわかっていたんですよ。ところが、「福寿安」まできたときに、もうぼくのほうの意識が乱れてしまって、そこで消えてしまったのです。ぼくは実は「福寿安泰」という言葉を知らなかったのです。福と寿と、安か空かなという感じがしていたのですが、安に近いという感じで、一週間後に、どこかの雑誌で石原慎太郎羽仁五郎との対談の頁に挿絵を描いてほしいと頼まれて、向こうから資料写真を持ってきたのです。そしたら、その二人がどこかの中華料理屋でテーブルを挟んで対談をしている写真を持ってきたのです。その真ん中に小さな壺があって、そこに「福寿安泰」と書いてあるのです。「あっ、そうか、あれは福寿安泰だったのか」という種明かしをされてしまうみたいな、そういう経験をしたことがあるんですね。・・・

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 ・・・ユングなどが言っているのは、夢を見たら、それを記述にするか、人にしゃべるかすることによって、無意識の部分を意識化させる。意識と無意識を統合させることによって、いろいろなシンクロニシティ共時性)が起こるという言い方をしていますよね。それはぼくは確かだと思うのです。だからメディテーションなども、無意識な部分を意識化させるためにはすごく役立つとは思うのです。

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 ぼくの日記には「今日のシンクロニシティ」というコーナーがあるんです。そうすると、どうもシンクロニシティの方が、「ああ、そうか、気付いてくれたのか」というので、どんどんシンクロニシティを起こしてきて、その回数が増えてくるのです。その結果現実認識の領域が広がってくるのでしょう。夢の世界も現実だという。・・・