そのものになりきる喜び

見えるものと観えないもの―横尾忠則対話録 (ちくま文庫)

 こちらは梅原猛さんとの対談です。

 成瀬雅春さんの本を読んだときに、瞑想を深める過程で、そのものになりきるという話があったなと思い出しました。

 

P199

梅原 若冲は、蛙を描くときは完全に蛙になりきっている。蛙になりきるということは狂気だと思う。

 

横尾 蛙でも蛇でも貝でも海藻でも、それを描くときはそれになりきっている。この自己同一化はたいへんなものですね。

 

梅原 恐ろしい。若冲は貝を描くと貝になりきって、貝になったことを楽しんでいる。歌麿も貝を描いているけれども、歌麿には貝になった喜びがない。この違いだね。しかし貝になるというのは宇宙的狂気だ。それが横尾さんのいう愛かもしれない。

 

横尾 それはまた先生のおっしゃった喜びだとも思います。喜びがないと絵は描けません。それがあるから描いているようなものです。

 

梅原 それは生きていることへの喜びと通じる何かだな。それを横尾さんは愛といったんだろうけど……。

 

横尾 宗教臭くいいたくはないけれど、その愛というのは、いわゆる神というものと通じた愛でしょうね。あるいは喜びでしょうね。そういうエネルギーがドドドッとくる感じです。人間は社会の中で、アイデンティティを持とうとしますよね。アイデンティティを持つっていうことは、たくさんあるものの中で一つだけとりだして、これが私ですっていう。宇宙全部私ですっていう自信無いですよね。ところがね、神様っていうのは、相当ハレンチでいいかげんでアナーキーで、汚いものもつくるわきれいなものもつくるわ、キリンもカバもなめくじも人間も、ありとあらゆるもの作るでしょ。神には思想が無いですよね。ほとんど無思想。いいかげんですよ。そうするとね、ぼくは芸術っていうのはいいかげんでいいと思うわけ。多くのなかのユリの花だけきれいですっていうんじゃなくて、泥水も一緒にとりあげるとか、アーチストっていうのは神の手の代行者だから、神と同じようにそういういいかげんさっていうか、ごちゃまぜっていうか、それが必要だと思うんですよね。だからアーチストは生半可な思想なんかもたなくってもいいという感じしませんか。どうも自分の考えを受け入れたがらないものを排除したがりますよね。なんか小さくしていくような気がしてしまうわけです。