狂気とは

見えるものと観えないもの―横尾忠則対話録 (ちくま文庫)

 こちらは荒俣宏さんとの対談です。

 

荒俣 ・・・狂気とは、普通なら非合理ということで済んでいたものが、病気の部分にしてしまったものだから、いろいろと問題になってしまい、その分、現代では管理がきつくなっていると思います。

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 なぜ、いま狂気が病気にされてしまっているかというと、これが正常なんだよという基準が人工的に作られ過ぎてしまっているためだと思います。たとえばお化けを見たときに「これは気の迷いだよ」ということで、一つの標準的なアプローチがあるとすると、それ以外のものは可能性さえも許されなくなってしまっている。

 イエスという答えが用意されていて、あとその他があって「どっちかわからない」というのがかなりあります。その「わからない」という部分にもなんらかの回答が用意されている。わかるものはわかっていいんですが、ただわからないものまで、わかっているような振りをされては困るということです。

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 人間が言葉としていろいろ喋るときに、聞いている人がわかる範囲内でやろうという取り決めであったものが、いつの間にか広がって宇宙の話から事物の話にまでなってしまった。我々はそれを事実の関係だと思い込んでいるに過ぎない。

 そういうことで、実体がわからないことについて、それをあまりにも自己規制してしまったために「わからない」という言葉が解答として成立しなくなってしまった。これが相当狂気の問題にしても窮屈にしてしまったんではないかと思います。

 江戸時代では言葉だけでなく。事物の持つ意味においても裏表の関係がありましたが、明治期以降は、AというものはA以外の何ものでもない、という厳しい区分を設けたんですね。狂気の面が特にそうです。昔なら天才とか、キツネツキとか、お告げとか、天狗のしわざ、といったものがすべて「狂気」でくくられるようになった。それらは本来創造的なパワーだったのですけれども。・・・

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 ・・・狂気という問題を別な言い方で表わすと「どれくらい徹底的になれるか」「どれくらい純粋になれるか」という度合いが原点だと思います。おそらく世の中で良い、悪い、病気だとか、正常だとかということは、常に両義的であって、基本的にこれは相対的な概念だと思います。

 ただ一つ絶対的な概念があるとすれば、それは「やり過ぎるか」「適当にやるか」のこれしかないと思います。・・・

 そういう意味で見ますと、狂気の名前というのは常に、行き過ぎた人々に与えられます。なぜ、行き過ぎると与えられるかというと、多分、一般的な秩序だとか、あるいは他人との関係をうまくやるという現世的な生活と離反するものだからだと思います。

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横尾 いずれにしても狂気とは、つまり、自分の内部からとてつもない鬼神のパワーによって突き上げてくる抑えがたい衝動ですね。それがそのまま花開くように発動されてしまう。それが狂気ですね。