贈り物

ラッキーマン

病気を公表した後、人々の愛と祈りをもらってばかりだったというお話です。
テレビのコメディ番組の収録場面から・・・

P375
 ・・・ぼくは観客に笑ってもいいんだという許可を与える必要があると感じていた。・・・
 数分後、カメラが所定の位置に配置され、ぼくたちはその回のオープニングのシーンを演じはじめた。いつも念のために同じシーンを二度演じることになっている。原則として、笑い声はいつも最初の撮りのときのほうが大きい。二度目の撮りのときには、観客はすでにどこでどんなジョークが出るかわかっているからだ。
 だが、今回は例外だった。芝居はほとんどまったく同じなのに、二度目のほうがずっと反応が大きかった。最初の撮りでは、ぼくが最も恐れていたことが起こってしまったのだ。観客はためらいがちで、自分たちがなにを期待しているのかわからず、ぼくの演技というよりぼく自身を見ていた。だがありがたいことに、二度目の撮りがそういう恐れをなだめてくれた。最初のためらいの後で、笑い声の調子から、観客がぼくの仕事とぼくの現実とをはっきりと区別していることがわかった。ぼくがやっていることがおかしいかぎり、笑うつもりがある、と観客は語っていた。
 その最初の夜にスタジオでぼくを迎えてくれたものは、一般の人がぼくのニュースを知ったときの受け取り方と一致していた。それは例外なく寛容で、共感を示し、気遣ってくれるものだった。・・・実際にぼくが受け取ったあふれんばかりの支持は―それが抱擁のように感じられたときもあった―とても、予告したり、心の準備をしたりできるものではなかった。今後自分はこの病気のために活動が限定されてしまうだろうという恐れは、溶けてなくなっていった。限定どころか、もらってばかりでこちらはなにも取られてないではないか。ぼくはまるで自分が人々の愛と祈りという贈り物で豊かになっていくような気持ちになった。・・・ぼくはまだいままでのぼくのままだった。みんな、ただぼくにパーキンソン病が付け足されただけだとわかってくれていた。それはぼくがいままでにもらった贈り物の中でも最もこちらを謙虚な気持ちにさせる贈り物だった。