時間は存在しない

時間は存在しない

 知識不足で理解できないのに(苦笑)、面白く感じて読み進みました。

 訳者あとがきに、

 

 著者はこの作品で「時間」にまつわる物理学の最近の成果だけでなく、神話や宗教者の解釈や詩や文学、さらには近代哲学や脳科学を援用して、シームレスに「時間」を論じている。・・・まず物理学がいかにして「時の流れは存在しない」という結論に至ったのかを平易かつダイナミックに紹介する。現代物理学だけに閉じていれば、以上終わり!でなんの不思議もないのだが、著者はそこで幕を引かずに、「存在しないといわれても、現に流れを感じるんだけど……」という個人の実感に寄り添い続ける。・・・

 

 とあり、だから読めたのかも?と思いました。

 

P31

 ・・・この世界の基本方程式に時間の矢が登場するのは、熱が絡んでいるときに限られる。

 ・・・時間と熱には深いつながりがあり、過去と未来の違いが現れる場合は決まって熱が関係してくる。逆回しにしたときに理屈に合わなくなる出来事の連なりには、必ずヒートアップするものが存在するのだ。

 ・・・

 ΔS≧0

 と書いて、「デルタSは常にゼロより大きいかゼロに等しい」と読む。これは「熱力学の第二法則」・・・と呼ばれるもので、その核心は、熱は熱い物体から冷たい物体にしか移らず、決して逆は生じないという事実にある。

 ・・・

 この式は、基本的な物理式のなかで唯一、過去と未来を認識している。この式だけが、時間の流れについて述べているのだ。そしてこの特異な式の背後には、ある世界が隠れている。

 その世界のベールを剥ぐことになったのは、一人の魅力的で不運なオーストリア人だった。時計職人の孫にして悲劇の夢想家、ルートヴィヒ・ボルツマンである。

 ΔS≧0という式の背後に潜むものに最初に気づいたのは、ボルツマンだった。

 ・・・

 サディ・カルノーは、熱は実在であり、一つの流れだと考えていたが、これは間違いだった。熱は、分子のミクロレベルの振動である。熱いお茶は分子がきわめて活発に動いているお茶であり、冷たいお茶は分子がほんの少ししか動いていないお茶なのだ。・・・

 一九世紀が終わろうという頃になっても、分子や原子は存在しないと考える人が多かった。原子や分子が実際に存在すると確信したボルツマンは、闘いを開始した。・・・

 ・・・

 熱による運動には、トランプのシャッフルを繰り返すのと似たところがある。順序よく並んでいるカードも、シャッフルすると順序が崩れる。こうして熱は熱いところから冷たいところに移るのであって、その逆は決して起きない。シャッフル、すなわち万物の自然な乱れによって、冷たいところから熱いところに熱が移ることはない。エントロピーの増大は、どこにでもあるお馴染みの無秩序の自然な増大以外の何物でもないのだ。

 これが、ボルツマンの理解だった。過去と未来の違いは、運動の基本法則のなかにはない。自然の深遠な原理のなかに存在するわけではないのだ。それは自然な秩序の喪失であり、その結果、状態は個性を失い、特別でなくなる。

 これはすばらしい洞察だ。しかも、正しい。とはいえ、これで過去と未来の違いははっきりしたといえるのか?いや、単に問題を置き換えただけのこと。こうなると、なぜ時間の二つある方向のうちの片方、わたしたちが過去と呼んでいるもののほうが事物が秩序立っているのかが問題になる。宇宙という名前の一組の巨大なトランプは、なぜ過去に順序立っていたのか。どうして昔はエントロピーが低かったのか。

 ・・・

 ボルツマンは、わたしたちが世界を曖昧な形で記述するからこそエントロピーが存在するということを示した。エントロピーが、じつは互いに異なっているのに、わたしたちのぼやけた視界ではその違いがわからないような配置の数〔状態数〕を表す量であることを証明したのだ。つまり、熱という概念やエントロピーという概念や過去のエントロピーのほうが低いという見方は、自然を近似的、統計的に記述したときにはじめて生じるものなのだ。

 しかしこうなると、過去と未来の違いは、結局のところこのぼやけ〔粗視化〕と深く結びついているわけで……。今かりにこの世界の詳細、ミクロなレベルでの正確な状態をすべて考慮に入れることができたら、時間の流れの特徴とされる性質は消えるのだろうか。

 消える。事物のミクロな状況を観察すると、過去と未来の違いは消えてしまう。・・・よく、原因は結果に先んじるといわれるが、事物の基本的な原理では「原因」と「結果」の区別はつかない。この世界には、物理法則なるものによって表される規則性があり、異なる時間の出来事を結んでいるが、それらは未来と過去で対称だ。つまり、ミクロな記述では、いかなる意味でも過去と未来は違わない。

 ・・・

* 熱々のお茶のカップに冷たいティースプーンを入れたときに起きることが、わたしの観点が曖昧かどうかによって違ってくるというのではない。スプーンとその分子に起きることが、こちらの観点といっさい無縁なのは明らかだ。どこからどう見ようと、何かが起きる、ただそれだけ。重要なのは、熱、温度、お茶からスプーンへの熱の移動といった概念を使って記述すると、実際に起きていることを曖昧に見ることになるという点なのだ。そして、このような曖昧な見方をしたときにだけ、過去と未来が明確に異なるものとして立ち現れる。

 

P49

 わたしたちの「現在」は、宇宙全体には広がらない。「現在」は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。

 では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは、時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の「現在」の範囲は、数メートル。ミリ秒単位なら、数キロメートル。わたしたち人間に識別できるのはかろうじて一〇分の一秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に含まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、「現在」について語ることができる。だがそれより遠くには、「現在」はない。

 遠くにあるのは、わたしたちの過去(今見ることができる事柄の前に起きた出来事)だ。そしてまた、わたしたちの未来(「今、ここ」を見ることができるこの瞬間の後に起きる出来事)もある。この二つの間には幅のある「合間」があって、それは過去でも未来でもない。火星なら一五分、プロキシマ・ケンタウリbなら八年、アンドロメダ銀河なら数百万年の「合間」、それが「拡張された現在」なのだ。これは、アインシュタインの発見のなかでももっとも奇妙で重要なものといえるだろう。

 

P59

 もしも「現在」に何の意味もないのなら、宇宙にはいったい何が「存在する」のか。「存在する」ものは、「現在に」あるのではないのか?

 じつは、何らかの形態の宇宙が「今」存在していて、時間の経過とともに変化しているという見方自体が破綻しているのだ。