私は世界と同等

見えるものと観えないもの―横尾忠則対話録 (ちくま文庫)

 こちらは河合隼雄さんとの対談。興味深い話がいっぱいでした。

 

P118

横尾 ・・・ぼくはある時ふっと気がついたんですが、「夢」の中でいろんな他人が出てきますよね。その人物が誰だか知っていたとしても「夢」に出てくるその人物は、実は自分の性格の一部を表しているんじゃないかと思うんです。

 

河合 すごく徹底した言い方をしますと、「私という人間は世界と同等」なんです。つまり世界と一緒なんです。だから私が横尾さんの「夢」を見たとしたら、それは今日お会いした横尾さんでもあるし、ぼくの心の中の横尾的部分であるといってもいいと思います。だから「夢」の中に出てくる人物というのは二重の意味合いを持っているように思います。

 臨死体験の中に非常に印象的な話があるのですが。死んだと思っていた人が生き返り、その生き返った人が活けてあるチューリップを見て、これは私だということがとてもよくわかるというのです。そのことがよく体感できると。――わかる気がしますね。普通、私たちが生きているこの世の意識では、チューリップと自分とは違うものだとしないと社会的に通用しませんが、深い意識状態では、チューリップも自分も一緒のところがあるんですね。そういう意味でのチューリップは自分の一部でもあるわけです。

 横尾さんの書かれた『夢日記』に「ぼくともう一人のぼく」というのが載っていますが、すごく面白かった。寝台車のベッドに寝ていたら、向かい側のベッドにもう一人の横尾さんが寝ていて、上半身だけしか見えないんだけれど、ずっと見ているうちにパッと消えてしまった。そして急に、今度は裸の女の足が布団から出ているのが見えた、とありますね。これは解釈ではなく、連想なんですが、横尾さんが見たもう一人の「ぼく」というのは下半身が女性だったのではないかと思います。つまり両性具有。そういう面が出ていたのではないかとふと思いました。特に芸術をなさる方は両性具有的なところがありますね。

 

横尾 芸術家は両性具有でないといけないと思います。

 ・・・

河合 この世を越えた存在は両性具有的であり、非常に超越的な存在だということでしょうね。それは自分の背後にいる自分というか、もう一人の自分をどういうふうにとらえるかで変わるわけです。単純なもう一人の自分という存在ではなく、それよりもずーっと深い存在である超越的存在は神に近づいていくわけです。真の自己とかいろいろな言い方はあるようですが。