生き心地の良い町

生き心地の良い町 この自殺率の低さには理由(わけ)がある

 この海部町が、なぜか特出して自殺率が低いことから、何か理由があるのでは?と調査した経緯が書かれています。

 とても興味深かったです。

 

P45

 海部町コミュニティの多様性重視の傾向について、もうひとつ紹介したいエピソードがある。

 小中学校の特別支援学級の設置について、海部町と他町との間で意見が分かれているという話を小耳に挟んだことがあった。特別支援学級とは、知的もしくは身体的に障がいを持つ児童生徒に対し、特別な支援を行うための学級である。子どもたちの諸事情や成育段階に合わせ、異なるニーズに丁寧に対応する教育を目指すとされている。この特別支援学級の設置について、近隣地域の中で海部町のみが異を唱えているというのである。

 ・・・

 ・・・海部町に住む知り合いの町会議員・・・は、特別支援学級の設置に反対する理由として、このようなことを言った。

 他の生徒たちとの間に多少の違いがあるからといって、その子を押し出して別枠の中に囲いこむ行為に賛成できないだけだ。世の中は多様な個性をもつ人たちでできている。ひとつのクラスの中に、いろんな個性があったほうがよいではないか。

 ・・・

 海部町にまつわるこのようなエピソードに一貫してあるのは、多様性を尊重し、異質や異端なものに対する偏見が小さく、「いろんな人がいてもよい」と考えるコミュニティの特性である。それだけではなく、「いろんな人がいたほうがよい」という考えを、むしろ積極的に推し進めているように見えてならない。

 

P50

 ・・・人物本位主義とは、職業上の地位や学歴、家柄や財力などにとらわれることなく、その人の問題解決能力や人柄を見て評価することを指している。

 調査を開始した当初から、海部町コミュニティの特徴として人物本位主義があると感じていた。ただ、なぜそう感じたのかと聞かれると説明が難しい。なんとなく感じたとしか言いようがないのであるが、あえて説明を試みれば、地域住民の尊敬を集める人物にある種の共通点が見られたということだろうか。

 その人たちは一見したところ、ステレオタイプの「重鎮」「ひとかどの人物」の型にはまっていない。初対面の挨拶を交わしただけでは、つかみどころがない場合も多い。たいそう口が重く、大丈夫かなこの人……とやや不安を抱えつつ窺っているようなときも、それは最初の数分だけのことで、相手が私の質問の本質を誤らずとらえて実に無駄のない答えを返してくれていることに気づく。周囲がよく見渡せていて偏りがないことも、彼らに共通していた点である。なぜ彼らが地域で高い評価を得ているか、納得がゆく。

 ・・・

 人物本位主義の傾向は、町の人事にも反映されていた。たとえば海部町の教育長の人選である。

 教育長は町の重役のひとつである。一般的には教育者として長年キャリアを積み、中学の校長を務めるなどしたのちに選任されるケースが多い。だが海部町では違った。これからの教育には企画力が重要であるとの考えに基づき、商工会議所に勤務していた四十一歳の、教育界での経験は皆無という男性が抜擢された。部外者にとってはちょっとしたサプライズ人事であるが、海部町では適材適所を検討しているうちにこうなった、という説明になる。

 今でこそ、教育界以外の民間人を校長に採用する公立校なども出てきているが、海部町のこういった人事は約三十年前から行われていたというのだから注目に値する。こうした方針を町のトップが代々引き継ぎ、年齢や経歴にとらわれない人事が続いていたという話である。

 

P71

<病、市に出せ>

 海部町での定宿である旅館のご主人から初めてこの言葉を聞いたとき、私のアンテナがふるふると揺れた。この町がこの町たる所以を理解するための、パズルの一片を見つけたような気がした瞬間だった。

 ・・・

 ・・・これは町の先達が言い習わしていたという格言である。

 彼の説明によれば、「病」とは、たんなる病気のみならず、家庭内のトラブルや事業の不振、生きていく上でのあらゆる問題を意味している。そして「市」というのはマーケット、公開の場を指す。体調がおかしいと思ったらとにかく早目に開示せよ、そうすれば、この薬が効くだの、あの医者が良いだのと、周囲がなにかしら対処法を教えてくれる。まずはそのような意味合いだという。

 同時にこの言葉には、やせ我慢をすること、虚勢を張ることへの戒めがこめられている。悩みやトラブルを隠して耐えるよりも、思いきってさらけ出せば、妙案を授けてくれる者がいるかもしれないし、援助の手が差し伸べられるかもしれない。だから、取り返しのつかない事態にいたる前に周囲に相談せよ、という教えなのである。

「病、市に出せと、昔から言うてな。やせ我慢はええことがひとつもない」。彼の母親の口癖であったという。「たとえば借財したかて、最初のうちはなんとかなるやろと思て、黙っとりますわな。しかし、どんどん膨れ上がってくる。誰かが気づいたときには法外なことになっていて、助けてやりとうてもどないもできん、ということになりかねん。本人もつらいし、周囲も迷惑する」。

「じゃあこの格言は、リスクマネジメントの発想なんですね」私が言うと、「ほのとおり」。彼は力強く同意した。

私が私として、私らしく生きる、暮らす

私が私として、私らしく生きる、暮らす 知的・精神障がい者シェアハウス「アイリブとちぎ」

 こんなふうな場所があったらいいなー、あぁ現実にあるんだ、よかったなーと思いながら読みました。

 

P101

 生きることに必要な「強さ」ってなんだろう。「びくともしません」「頑丈で何があっても倒れません」というドシンとした印象を思い浮かべてしまうけれど、実はそうではないような気がする。

 風が吹いたら飛んでいってしまうような軽さで、姿カタチをふわっと変えながら進んでいけるようなもの。変わった先では、変わったなりに、そこでの居心地の良さを見つけられる。そんなしなやかさが、本当の「強さ」なのではないか。

 一人ひとりは、障がいがあって頼りないかもしれない。保護者やご家族の方は、自分たちがいなくなった時に幸せに生活していけるのか心配かもしれない。もし長年入院していたとしたら、病院を出たあと、地域で幸せに暮らしていけるのか不安かもしれない。不安や心配ごとはいくらだってでてくる。

 だけど、本当に困ってしまった時は、だれかに助けを求めることができたらいいのではないか。そして、困っている人に対し、自然に手を差しのべあえる居場所があったら、一歩ずつでも前に進んでいけるのではないか。困ったら「困ったよ」と言えて、つらかったら「つらいよ」って言える。それをちゃんと受け止めてもらる。「ここにいたくないよ」って思ったら、違う場所に行けるし、違う場所でも、またチャレンジすることができる。

 一人ひとり、一つひとつは弱いけど、弱さを認めて、むしろ活かしていく。風に乗りながら、姿、カタチ、やり方を変えながら、前に進んでいけることこそが、本当の「強さ」なのだ。アイリブではそんな強さをもちながら生きていくことを「自律」と考えている。

 ・・・

 たとえば、目の前にいる人が困っていたとする。その人にとってはとても難しいようだけど、あなたには簡単にできてしまうようなことだった。なので、さっと手を差しのべてみた。そしたらものすごく感謝され、満面の笑みで喜んでくれた。そんなに喜んでくれるなんて、逆にあなたの方が「ありがとう!」とうれしくなった。そんなあたたかい「ありがとう」の交換が、毎日いろんなところであったらいいな。

「あなたのためにやってあげる」ではなくて「私が」やりたいからやる。「私が」こういう社会がいいなと思うからやる。「私が」望む未来へ向かう手段の一つとして協力したいからアイリブに参加する。「自律」を育んでいける「強くてあたたかいコミュニティ」って素敵だな、と「私が」思っているから、そういう地域社会を「私は」つくっていきたいんだ。

 

P107

「私らしく」っていうのは、人との関係性から生まれると思っています。一人では「らしさ」はつくれない。だからこそ、生きること、暮らすこと、そんな最も自然な営みにおいては、「私らしく」を何よりも大切にしたい。・・・

 ・・・

 世界に存在するのが私ひとりだとしたら、「私らしさ」は存在しない。誰かとの関わり、誰かへの思い、誰かへの感謝や悔しさが、孤独な時間や楽しい時間の私の「らしさ」をつくる。自分が人に劣っているとか、自分だけが浮いている、そんなマイノリティをオリジナルと言い換えて、「ユニークこそ世界だ」と思える社会にしたい。自分自身の「私らしく」に向き合うことが、他人の「私らしく」にも寛容になれるヒントになるのではないでしょうか。

 

P177

 私が人生で出会った障がい者は、「車椅子で酸素ボンベ持って、ヘルパーさんとスペイン行く!」とか、「ハワイで透析受けれるから1週間行ってくるね」とか、片麻痺で歩けなくても「友達と船乗って釣り行くわ!」とか「海外の仕事続けたいから、歩けるようにして、向こうのマンションの住宅改修頼むわ」とか、学校の先生も「ヘルパーさんについてきてもらってトイレ介助お願いする。授業してくるわ」とか「ディズニーランドのレストランでミキサー食お願いした!」とか、車いすで一人で外出してあちこちお手伝いしてもらえる施設探しをしたりとか…。結構、面白いユニークな方が多かったです。

 そこから学んだことこそ、本当の「自律」です。自分の希望のため、ワクワク生きるために、人や物を使う頼る、環境を整える…。そう、自分ひとりでできなくてもそれでいいのです。ワガママ万歳!希望を胸に抑えずだす。そこから自律支援が始まる、と思っています。失敗体験も挫折も自律支援、できないと決めつけてしないより、やってできないことを学ぶ。その経験こそが生きていく力になると信じています。

 アイリブも「自分で暮らすをサポートする」ことをテーマにしているのも、まさに「自立」+「自律」=私らしい暮らし(人生)をサポートできればと思っています。もちろん、「つらいから助けて」「できないから手伝って」と言うことは、恥ずかしいことではなく、そんな自分を見つめてヘルプを言えること!手伝ってもらうこと!も自分で決めたなら自律といえるのです。

やさしい言葉たち

こといづ

 読んでいてやさしい気持ちになる、印象に残ったところです。

 

P68

 変わってゆくとはいえ、生まれてこのかた、ずっと変わらず追い求めている「これぞ我がいのち」と魂がうち震えるような何かが、ある。どこにあるのか、きっと躰の中にあらかじめセットされているような、春がやってきたのがうれしくて村人も山々も笑っていて幸せだなあと、ピアノでも弾いてやれと包み込んでゆくと、音の波と山の精気が混じりあって、魂がうち震えて、これこれこれのこと、と思ったりする。震える魂自体は同じ気がするけれど、震わせられる条件が毎度違う。だから「こうやればいい」という方程式はなくて、だからこそ何度でもピアノを弾いてみたくなる。

 

P221

「あんた、また気張って勉強しとるんかい」、ハマちゃんが仕事部屋の窓越しに中を覗き込んでいる。微笑みながら「そうやで、毎日、ああでもない、こうでもないって音を鳴らしてるんや。元気かい、どうしたん」「あんな、大根なんぞ炊いたんは、あんたはいらんやろ」と少し照れながらハマちゃんが尋ねてくれる。「欲しいで、食べたいで」「そうか、じゃあ取りに帰ってくるわ」と拳をぎゅっと握りしめて駆けっこのポーズを取ったので、「一緒に行こかい」とハマちゃんの家まで並んで歩いた。

「ここからな、ほれな、あんたんとこが、ようやっと見えるようになってきた。葉が落ちてくれて、あんたの家が見える。見えるだけでうれしいもんやで」。冬になると毎回してくれるこの話が、僕は大好きだ。「大根のな、容れもんはこれでいいかい。よう見とみ。なんの形やい」と手渡してくれたのはハート型の容器だった。「そういうこと」と、ニカッと笑うハマちゃんを背に、急な坂を上って家に戻る。

 ふと見上げると、家の上に虹がかかっていて、笑う。

 

P222

 この冬は、久しぶりに映画音楽に取り掛かっている。・・・

 ・・・

 ・・・ある日、ようやく「ああ、これだ!」といとおしいメロディが歓びと共に降ってきた。

 やったあ、よかったよかったと監督にも送ってみたけれど、どうにも反応がいまいちだ。・・・

 ・・・「ここから先、どのように進めればいいと思われますか」と苦し紛れに監督に尋ねてみると、「今まで出してもらったスケッチは一度忘れてもらって、いつもの高木さんの感じでやってもらえれば。『いつもの高木さんで』、それだけを望んでいます」と穏やかな笑顔でおっしゃった。

 あれ?いつもどおりに……、自分の思うままに……、そうやって進めたのがこれまでのスケッチだったのに……???そもそも「いつもの自分」っていったいなんだろうと、ぐるぐる目眩のするような問答の穴に落ちてしまった。

 ・・・

 ・・・思いついたメロディを演奏して、よし、おもしろい感じになってきたかもと、再び監督に送ってみる。「いや、うーん。何かが違うというか。ほんとうにいつもの高木さんのままでやってもらえればいいのですが……」と困っている返答だった。「映画に寄り添い過ぎているのかもしれません。しばらくは僕の言葉を横に置いてもらって、出来上がってきた映像も見ないでもらって。今まで高木さんにお伝えしてきた言葉は、映画に対する僕のひとつの解釈に過ぎませんから。高木さんは高木さんで、映画全体を俯瞰的なところから見てもらって、そこから音を奏でてもらえれば」。

 何かがピンときた。そうか、「いつもの自分らしく」。そういうことか。僕の勝手な思い込みだったり、妄想をそのまま表に出してしまっていいということか。・・・相手に寄り添おうとするのは大事なことだけれど、相手の心と同じになろうとしてしまうと、「自分らしい心」は消えてしまう。相手が赤だと思っていても、こちらが青だと思っていたなら、それでよかったのだ。一緒になれば紫になる。それも単純な紫ではなく、時には赤になったり、赤っぽい紫だったり、真っ青になったり、自在に変化するおもしろい色彩。誰かと一緒に何かを生み出すというのは、そういうおもしろさだなあと、改めて気がついた。

 ・・・

 もう自分がやるべきことがわかった。音が頭の中で流れ出したので、それを拾っていく、ただただ、こぼれないように受け止めていく。そのメロディが、いいか悪いか、そういうことはわからないけれど、そのまま監督に送ってみる。「ああ、これですよ。欲しかったのはこれです。このまま進めてください」。ほっ、ようやく、はじまった。

 生まれてきた人、それぞれが持ち合わせている「いつもの自分らしさ」、それぞれのきらきらした宝もののような眼差し。それが交わったり離れたり、はみ出していったりしながらも、同じ方向に向かって、待ち受ける未来に辿り着く。・・・

 

P239

 誰にも知られなくていい、ずっと自分の一番素直な中心から、それと同時に一番遠く自分から離れた宇宙の果てに、その間のどんな時空でもいとおしいような、そんな心でありたい。

 昨日の夜、庭の小川を覗いてみたら、蛍がたくさんふわふわと暗闇を泳いでいた。たくさんの光が一斉にゆったりと瞬いて、大きな呼吸をしているみたいだった。

 

こといづ

こといづ

 「あるんだから」「肩書きはその人なりの喜びが書いてあったほうがしっくりくる」「どうやったら自分の天才は喜ぶのか」・・・など、たくさん印象に残る言葉がありました。

 

P4

 2012年春から2018年夏まで、6年間、月刊誌『ソトコト』に掲載された77篇のエッセイを極力こぼさずに一冊にまとめたものが本書になります。

 ・・・

 6年間の間にいろいろありましたが、やはり山間の小さな村に引っ越したのがなによりの転機だったと思います。目まぐるしく生きる自然や心豊かな人たちに囲まれて、僕の頭の中も、自分の何かを表に出したいというよりも、やってくるものをきちんと受け止めたいというふうに変わっていったと思います。

 この本にもよく出てくる86歳のハマちゃんがよく言います。「あるんだから」。そう、あるんだから。ついつい、あれがあったらなあ、ここがこういう場所だったらなあと、ない物ねだりをしてしまいますが、目の前にいっぱいある、あふれるようにあるものごとにこそ気づいて、一緒に楽しく心安く暮らしていけるだけで、だいたいいつも幸せでいられるのだなと知りました。

 

P22

 ・・・例えば、皆が欲しがるような何かが目の前に差し出された時、我先に手に入れることに喜びを感じる人もいれば、自分以外のほんとうに欲しがっている人が手に入れることに喜びを感じる人もいる。もしかしたら、誰の手にも入らないことに喜びを感じる人もいるかもしれない。どれが正しいとか美しいという話ではなくて、そこにはいろんな種類の喜びがあるという話。

 世の中には、いろんな職業がある。僕だったら、「音楽家/映像作家」が肩書きだ。だけど、僕自身が、世の中に即してどうある人なのかを説明するのに、しっくりくる言葉ではない気がする。子どもの頃から何十年もかけて、その人なりの喜びを受け取る道をひたすら歩んできたのだから、きっと、ほんとうのプロフェッショナル、肩書きは、「音楽家」みたいな職種の名前などではなく、その人なりの喜びが書いてあったほうがしっくりくる気がする。

〝三つ子の魂〟が育て上げた、喜びを受け取る能力を、あの人もこの人も持っている。だれもかれも、子どもの頃があったのだと、そんな視線で世の中を見られると、ほっと穏やかな気持ちになる。

 

P26

 ・・・「普段は出てこないけれど、いざとなったら出てくる自分の才能」、これに対して、あっぱれ!と信じて、当てにするのがいいです。どんなにすばらしい才能を持った人でも、その才能が常にいつでも出てくるものじゃないことを知っています。自分が気持ちよく解放された瞬間だとか、誰かの想いを受け止められた、風を切るように走れた、いいアイデアが思いついた、大きな声が出たなど、思いもよらなかった自分の能力を味わえた最高の瞬間って、皆それぞれたくさん持っていると思っています。

 自分の天才を外に出すこと。どうやったら、この天才が生み出す素晴らしい何かをきちんと表に出せるのだろうか。悩むのだったら、その部分に対してきちんと悩んで、あとは悩まなくてもいいと思っています。

 ・・・

 まるで、釣りと同じ感覚です。豊かなものは、もうそこにあるのだから、あとはどうやったら釣り上げられるのか。乱暴に釣り上げることだってできますが、同じ漁でも、いろいろ知って、魚を喜ばせたい。魚が喜んでくれたら、実りはきっともたらされます。あとはもう感謝していただくしかありません。

 どうやったら自分が喜ぶのかより、どうやったら自分の天才は喜ぶのか。そこに想いを巡らすと楽しくなります。なかなかうまく進めない時は、天才を喜ばす経験が足りていないのかもしれない。あれこれ悩むより、一歩、「今の自分」の外に出て、自分の中の天才を喜ばすあれこれに出会う旅に出たいものです。

 

P112

『しょうぶ学園』の音楽集団「otto&orabu」と、この1年、何度か一緒に奏でましたが、先ほどありがとうのお手紙が届きました。そこにこんな素敵なことが書いてありました。

「淡路島では、再びご一緒させていただくことができてとてもうれしく思います。メンバー(知的障がいがある演奏者)もスタッフも、高木さんと打ち解けてとても楽しそうでした。こちらへ戻って数日し、メンバーと会った際に『ライブ楽しかった?』と聞きました。『うん。今日のお昼は○○だよ』と返ってきました。ほとんどのメンバーが、今のこと、もしくはほんの少し先のこと(数時間後のお昼ごはんとか)。私たちはつい、思い出にして懐かしんだり、振り返ってみたり、キレイにしたり、反省したりしますが、メンバーはやっぱり『今』なんだなと改めて感じた出来事でした。

 時間は常に流れ、ただ過ぎていき、その瞬間だけがあること、どんな瞬間もかけがえがないなあと思います」

 

P216

 村の集まりで男たちだけで酒を交わした。「かっちゃん、村おこしとか、そういうのはここではもういいんや。ここだけは別でいいんや。わかるか。今おるわしらが機嫌ようやっていこうやないか。機嫌よう毎日やってるのが一番ええ」。そう、機嫌よく。自分を機嫌よく。毎朝、目覚める度に、まるであたらしい朝だということに気づいてあげられれば、自分を歓ばせてあげられれば、極楽は目の前にある。

 ハマちゃんの口癖、「あるんだから」。そう、あるんだから。すでにあるんだから。

56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました

56歳で初めて父に、45歳で初めて母になりました - 生死をさまよった出産とシニア子育て奮闘記 - (ワニプラス)

 こんなこともあるんだと、読みながらこちらまでハラハラドキドキ・・・最新医療ってすごいのだなという驚きもありました。

 

P206

 夢中で育児に追われ息子の寝かしつけにも慣れてきた。

 息子が1歳になってしばらく経ったある日の深夜、妻から出産に至るまでの迷いを根堀り葉堀り聞いてみると、驚くべき事実を知った。

 というか夫婦に会話がなかったわけではないので、断片的には聞いていたのだが、「そんな大変な思いをしていたとは」と、わが鈍感力を呪い、まったく夫というのはなんの役にも立たないなあと痛感したのである。

 これから書くことは、大げさに言えば、「息子が産まれることで母体が危険にさらされたことが、じつは母親の命を救っていた」という話である。

 妻は、今から15年ぐらい前、30代の頃から子宮筋腫があったのだという。

子宮筋腫があること自体は女性にとって珍しくないんだけど、私の場合はそれが大きくて、徐々に膨張していたのよ。(10年前の)結婚したあたりで6センチはあったかな。年に1回は経過観察をしてくださいと主治医に言われていたの」

 ・・・

 妻の場合、筋腫の数が多いのも心配ごとだったという。

「大きいのが1つあるうえに、私の場合は〝多発性〟で、ほかに小さいのも2つ3つ育ってた。女性ホルモンで育ってしまうんですって」

 ・・・

 子宮筋腫の肥大化でもやもやする一方で、妻の心配ごとはさらに増えていった。

 年に1回受けている女性健診で、2019年9月に、子宮頸ガンの疑いが発覚したのだ。

 ・・・

 ・・・精密検査の結果は、やはり、「子宮頸ガン疑い」の軽度のもので、「半年に一度、経過観察が必要」という診断結果だった。

 加えて、内診とエコー検査の結果、「子宮筋腫がこれだけ大きいと、手術をしたほうがいい。筋腫が血管を圧迫して血栓ができる可能性もある。そうなれば命に関わります」と、心配に追い打ちをかける警告もあった。

 それで妻は、さらに別のクリニックで子宮のMRI検査を受けることになった。・・・

 その結果は―。

子宮筋腫は大きすぎるので、腹腔鏡などで筋腫だけを取るのは困難。開腹で筋腫だけを取るのはリスクが大きく、子宮全摘を考えてもいい時期だ」というのが医師の見解だった。

 妻が振り返る。

「カルテにある私の年齢を見て、『子ども、もういいですか?』って言われて……。そのとき44歳になってたから。そうか、『もういいですよね』と言われる年かと。そういう年になったのかって、このとき現実に直面したのよね」

 妻は、9月に精密検査して、10月にそう宣告されていた。

 この間、私はいったいなにをしていたのか。

 LINEの妻とのやりとりで振り返っても、熱海に1泊旅行をしたり、浅草の「まつり湯」という日帰り温泉に行ったりして、妻とは飲んだくれていた記憶しか残っていない。

 なんてことだ!

 今後の人生を考えて、子宮筋腫の肥大化による血栓の危険性と、「子宮頸ガン疑い」が同時に消える「子宮全摘手術」を現実として考え始めていた妻。

 そのときの心境はどうだったのか。

「お医者さんに、『いや産みたいんで……』という年でもないし、妊活も不妊治療も真剣に考えてこなかったから、そこで『子どもは欲しいので全摘だけはしたくないです』とは言えなかったの。ただ、そこで初めて、『二度と子どもは持てない』『100%無理なんだな』とわかって、ズーンと落ち込んだ。子宮筋腫が大きくなり出した40歳前後から、なんとなく予感はしていたけど、なにもしてこなかったから」

「あとはなによりも、臓器を1つなくすという恐怖。ホルモンバランスがおかしくなるだろうし。その一方で、病気になるほうが怖いし、ガンになるのも怖かったから。手術を先延ばしにすることにあまり意味はないだろうなって」

 子宮全摘手術を勧めた医師に、妻は「わかりました。そっちの方向で考えます」と答えていた。

 ・・・

 このとき妻から相談を受けた記憶は鮮明にある。この先の2人の人生も短くはないだろうし、なにより妻には長生きしてほしいと思ったので、「3月に子宮全摘手術を受ける」と決断した妻に反対する理由はなかった。

 ・・・

 さばさばしているように見えた妻だが、「今だから言えるけど……」と前置きして、こう明かした。

「すごく重たい思いを抱えていたんだけど、周りの友だちには誰も相談できなかった。だって同年代で人知れず不妊治療をしている友だちは多いだろうし、そういう人はそろそろ不妊治療をあきらめる時期だろうし。なにもしてこなかった私が、『子宮を全摘することになったの』と同情を買うようなことはとても言えなかったのよ」

 その「重たいもの」をいったん忘れるように、2019年末の年越しタイ旅行で、夫婦ともに弾けまくって遊んだことは1章で書いた。その結果、奇跡的に赤ちゃんに恵まれたというわけだ。

 タイ旅行から帰ってきて、妻は体の異変に気づいたという。

 ・・・

 ひどく動揺したらしい。

 子どもができてから、妻はよく私に、「変化を楽しもう」と言っていたのだが、それは変化が好きじゃないことの裏返しだった。

「いまさら生活が変わるのかと、不安でいっぱいになった。嬉しくてたまらないのだけど、頭の整理がつかない。年齢も年齢だし、元気な子を産めるのだろうか、自分の子宮で大丈夫なのか……。摘出しなければいけないような状態だったわけだし、もうハラハラドキドキが止まらなくなって、口から心臓が出てくるってこういうことかと思ったわ」

 それでも、妊娠検査薬の判定ミスなど万が一のことがあるかもと思い、夫の私にも親にも言えず、かかりつけの婦人科で診てもらったのだという。

 医師は「妊娠検査薬で出たのならばほぼ間違いないでしょう」と言ったあと、検査を始めた。

「エコーで勾玉みたいな形をした2センチの赤ちゃんがくっきり映っていて、先生から『声も聴けますよ』と、エコーから聴かせてもらうと、『ドクドクドク』ってすごい速さの心臓の音が聴こえてきた。その瞬間、わーっと涙が……」

「大丈夫でしょうか?この子」と聞く妻に医師は、「元気だし、エコーを見た限りではなんの問題もないですよ」と出産にGOサインを出した。ただ、高齢出産のうえ、子宮筋腫があるという事実は動かしようがない。

 医師は、「出産年齢よりも、筋腫がちょっと心配だよね。あなたの場合はハイリスクなので。日本医大付属病院で出産まで診てもらいましょう」と紹介状を書いてくれた。

 ・・・

 ここから先の、日本医大付属病院での妊娠経過観察から、東大病院での帝王切開手術による出産、妻が妊娠中に患った心筋炎の危機は、長々と綴ってきたとおりだが、驚くべきことに、出産によって妻の体の中の懸念が2つとも消えていたのだ!

 子宮頸ガン疑いである「軽度異形成」については、出産前の検診で「消えていますよ」とあっさり告げられた。これは自然治癒する例もあるのだという。それも、お腹の子が助けてくれたのだろうか。

 そして、心配の種だった大きな筋腫については、帝王切開手術のときに、筋腫から出血があったため、「取っておきました」と、こちらも産科の執刀医にあっさり報告を受けたそうだ。

 妻の詳しい話を聞き終えた私は、しばらく呆然とした。

 晩婚で、時にケンカもしながら2人で楽しく暮らしてきた。

 老後のことを考えるより、次の休みにどこへ行って、なにを食べるかを大切に、今を生きてきた。子どもができるか、できないか、それは授かりものだと思っていた。そのときそのときの今が楽しく生きられればいい。

 その考えに後悔はないが、これから先も、もっと自分の、妻の、体の声も聞きながら生きていけば、悪しき前兆を食い止めたり、楽しさが倍増したりするのかもしれない。

 今をもっと大事にしよう。

 我が家では、まさに神様から授かったとしか思えないタイミングで、妻が子を宿した。

 しかし母体と子どもが命の危険にさらされた。その危険な状態が劇薬となって、妻の体から懸念材料を消し去ってくれた。人間の持つ底知れぬパワーを思い知らされる。

 そのパワーはかけがえのない今を毎日、笑って過ごすことから生まれる。

 妻よ、我が子よ、本当にありがとう。

水中考古学は何よりも楽しい

沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う (新潮文庫 や 88-1)

 こんなに夢中になれるって幸せだなあと、こちらまでニコニコしてしまいました。

 

P89

 大学院ではもう一つ大切な出会いがあった。ブラジル人留学生のロドリゴだ。・・・

 彼は私よりも9歳年上のブラジル人だ。優秀な学生に支払われるフルブライト奨学金を勝ち取り、私が修士課程に入った1年後の2010年に博士過程の学生として入ってきた。ロドリゴはいつでもニコニコ、発掘現場の全てを楽しみながら、しっかりと成果も出していた。

 彼と出会うまで、私は勉強方法に効率は求めながらも、どこかで「成功するためには努力しなければならない。今努力をすればその分だけ将来が明るくなる」と考えていた。

 いつだったかは覚えていないが(おそらく彼とお酒を飲んでいた時だろう)、そんなことを彼に話した。すると彼は「しっかりやれば、努力をしながらも楽しむことはできるはずだよ。どちらか一方だけを選択するものではないし、なにより今日を楽しみながらやらないと損だよ」と言った。

 彼の生き方を聞いた後、私はただひたすら努力するのではなく、なるべくその時その瞬間を楽しむように心掛けた。心掛けたというよりは「心を解放した」といった方がいいのかもしれない。

 この本を書いている2024年現在、私はいろいろな国の現場で働かせていただけるようになっている。私の依頼主は各国の政府や大学で働く著名な水中考古学者達なのだが、皆から言われるのが、「君が誰よりも楽しそうに仕事をしているから、見ていてこっちまで楽しくなる」ということだ。

 ただ、私は無理に作り笑顔をしているわけではなく、ロドリゴのように全力で楽しむようにしているだけだ。水中考古学は何よりも楽しい!だから単純に楽しくなっているのだ。

 

P115

 こうしたプロジェクトの依頼はどのように舞い込むのか。

 私の場合、まず各国の政府の考古学研究機関や博物館、大学の学術調査のみを受けることにしている。理由はただ一つ。しっかりと研究を行える学術調査が楽しいからだ。

「学術調査以外に考古学者がかかわる発掘案件なんてあるの?」と不思議に思う方もいるかもしれないが、世界中の考古学の発掘調査の90%以上が、建設工事などに伴って行われるものなのだ。

 ・・・

 学術調査の場合、どこかで重要な遺跡が発見されたとの報告が研究機関に届くと、まずその機関が国や地域に関わる重要な遺跡かどうか判断するため、事前調査を行う。その後、政府や財団へ発掘研究費を申請、それが通ると調査チームを発足させる。私への調査参加オファーはこの段階で連絡が来る。・・・

 ・・・

 気になる報酬だが、これが値段設定でいつも頭を悩ませる。なぜかというと、私は日本よりも遥かに物価が高いフィンランドデンマークからも、逆に物価のかなり低いコロンビアやクロアチアなどからも依頼を受ける。なので値段設定を均一にできないのだ。

 そこで日本やアメリカからの依頼を100とすると、フィンランドデンマークからの依頼を150~200、クロアチアやコロンビアなどの国からは30~50で引き受け、コスタリカミクロネシア連邦などからは場合によっては10~20で引き受けることもある。日本やアメリカからの依頼だけを引き受けていれば、生活に困らない程度の報酬を得ることができる。フィンランドデンマークなどからの依頼を受けた時は万々歳だ。ただこうした先進国の多くは水中考古学がすでに盛んで、なかなか新しい未発掘の沈没船の学術研究はない。逆にクロアチアやコロンビアなどは報酬こそ低いが、これから研究がスタートする段階の調査が満載なのである。だから、依頼を拒否するという選択肢はない。

 それに、通常は飛行機代と食事、宿泊施設を依頼主が報酬とは別に用意してくれる。そのため発掘プロジェクトに参加している最中、私自身の支出は実に少ない。ただ、金銭的余裕ができるとすぐに高額な学術文献を買ってしまうので、自慢ではないが生活はかなりキツキツである。

 それでも、私の毎日は楽しい。なぜなら、「少ない給料で働いている」でなく「無料で海外旅行をしつつ、さらに小遣いも貰っている」と考えているからだ。これほどラッキーな職業はないと思っている。

沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う

沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う (新潮文庫 や 88-1)

 水中考古学について、何も知らなかったので新鮮に楽しく読みました。

 何よりも、著者がなんと興味深い方なのだろうと・・・

 

P7

 私は2009年からアメリカの大学院で船舶考古学を学び、現在は世界中で水中調査・研究を行っている。

 アメリカに留学した当初、私は英語が全くできなかった。マクドナルドでハンバーガーを注文することもできなかったし、半年間勉強しても、TOEFLの読解問題は1点しか取れなかった。だが、「こんなに面白い学問は他にはない!」とほれ込んだ水中考古学の勉強をしたい、その一心で英語を学び、アメリカの大学院に入学し、指導教官のもとに押しかけ、博士号を取得した。

 そして、大学院卒業後、世界中の海に潜り、船の発掘と研究をしている。

 

P78

 ・・・語学学校のオフィスを見つけ出した。クーラーの効いた室内に入ると、受付のアメリカ人女性が話しかけてくる。私には彼女が何を言っているのかが、さっぱり分からなかった。

 しかし運がいいことにその日、少し日本語の話せる韓国人の男性が入学の手続きにやってきていた。受付の女性に加え、何人もの講師が必死になって私とコミュニケーションをとろうとしている奇妙な様子を見て助けを申し出てくれた。彼の通訳によって、ようやく私に住む場所がないこと、知り合いが誰もいないことが彼女たちに伝わった。後から聞いた話によると、私のように住む所さえ決めずに渡米してくる学生は前代未聞だと、職員内で笑いの種になったそうだ。

 何もできない私の代わりに、語学学校の受付の女性が入学の手続きやアパートの手続きをしてくれた。しかし入居できるのは、授業が始まるのと同じく1週間後。それまでは、語学学校の先生が手配してくれた大学近くの安いモーテルに滞在することになった。

 モーテルに着いた頃には夜の6時を過ぎていた。前日からほとんど何も口にしていなかった私は、考えられないほど空腹だった。

 歩いて行ける距離にマクドナルドがあり、そこで食べることにした。店内は夕食時でとても混雑している。私が注文する番になり、体格の良い女性店員に何か尋ねられたが、彼女が何を言っているかは全然理解できない。

 実は、アメリカのマクドナルドではハンバーガー単品のことを「サンドウィッチ」、セットメニューのことを「ミール」という。そんなことは全く知らない私は「バーガーセットプリーズ」と完全な日本人発言の英語で懇願していたのである。

 徐々に店員の女性のいら立ちが顔に見え始め、繁盛している店内で私の後ろの注文待ちの列は、みるみる長くなっていった。

 私の心は、完全に折れてしまった。

 恥ずかしさと申し訳なさで、何も注文することなく店を飛び出す。その後、気を取り直して、近くにあったスーパーに行って軽食を買おうとした。ただアメリカのスーパーではレジ係が「Did you find everything,Okay?」などと、必ず気さくに話しかけてくれるのだ。・・・

 レジで店員さんに話しかけられた私は、怖くなって何も買わずにまたしても逃げ出してしまった。

 語学学校が始まるまでの1週間、モーテルの受付の横にあった小さなスナックとジュースの自動販売機だけで命を繋ぐことになった。部屋と自動販売機を行き来しながら「なんで自分は、こんな所に何も考えずに来てしまったのか?」と、情けなさと後悔で泣きながら過ごした。

 しかし、留学生活も半年が過ぎ、振り分けられた一番下のクラスの留学生相手なら苦労なく会話ができるようになっていた。

 成長した自分の英語力を試してやろうと、私は留学生向けの英語試験であるTOEFLを受けることにした。・・・

 ・・・成績が届き、スコアを確認してみると……。

 読解:1点

 目を疑った。TOEFLは全て選択問題だ。適当に答えても各セクションで5点は取れそうなものなのに、1点とは……。他の分野のスコアも散々で、合計でも30点かそこらだった。このままだと、いつまでたっても大学院入学など果たせない。徐々に近づいていたと思っていた水中考古学ははるか先にあった。

 次の日から、語学学校での授業後、深夜3時まで図書館で勉強する毎日が始まった。今思えばこの時が人生で初めての〝受験勉強〟だった。

 

P256

丸山 それにしても、大学院に入る前の語学学校時代はがんばりましたね。2年で大学院に入学できると思っていました?

山船 勉強し続ければ、いつかは入れると楽観していました(笑)。私は丸山さんみたいに学部から考古学を学んで院に……という正規のルートではなく、野球漬けの大学生活からいきなりアメリカの語学学校に行ってしまったので、自分が上っている階段が何段くらいあるのか分かってなかったんです。階段の高さがあらかじめ分かっていたら、諦めていたかもしれません。通った語学学校は目標としていたテキサスA&M大学の併設で、偶然、水中考古学の教授の奥さんが語学学校で教えていて、「コウタロウはバカだけど、やる気はある」とプッシュしてくれました(笑)。

丸山 その後、無事に大学院に合格、研究室に入るわけですよね。この頃に、一番ご自身の能力が伸びたのでは?

山船 どちらかと言えば、院へ正式入学する前の「お試し期間」だった仮入学の1年が最も辛かったですね。結果を出せなかったら日本に帰されるというプレッシャーから、幻聴や幻覚が出るくらいまで勉強しました。