読んでいてやさしい気持ちになる、印象に残ったところです。
P68
変わってゆくとはいえ、生まれてこのかた、ずっと変わらず追い求めている「これぞ我がいのち」と魂がうち震えるような何かが、ある。どこにあるのか、きっと躰の中にあらかじめセットされているような、春がやってきたのがうれしくて村人も山々も笑っていて幸せだなあと、ピアノでも弾いてやれと包み込んでゆくと、音の波と山の精気が混じりあって、魂がうち震えて、これこれこれのこと、と思ったりする。震える魂自体は同じ気がするけれど、震わせられる条件が毎度違う。だから「こうやればいい」という方程式はなくて、だからこそ何度でもピアノを弾いてみたくなる。
P221
「あんた、また気張って勉強しとるんかい」、ハマちゃんが仕事部屋の窓越しに中を覗き込んでいる。微笑みながら「そうやで、毎日、ああでもない、こうでもないって音を鳴らしてるんや。元気かい、どうしたん」「あんな、大根なんぞ炊いたんは、あんたはいらんやろ」と少し照れながらハマちゃんが尋ねてくれる。「欲しいで、食べたいで」「そうか、じゃあ取りに帰ってくるわ」と拳をぎゅっと握りしめて駆けっこのポーズを取ったので、「一緒に行こかい」とハマちゃんの家まで並んで歩いた。
「ここからな、ほれな、あんたんとこが、ようやっと見えるようになってきた。葉が落ちてくれて、あんたの家が見える。見えるだけでうれしいもんやで」。冬になると毎回してくれるこの話が、僕は大好きだ。「大根のな、容れもんはこれでいいかい。よう見とみ。なんの形やい」と手渡してくれたのはハート型の容器だった。「そういうこと」と、ニカッと笑うハマちゃんを背に、急な坂を上って家に戻る。
ふと見上げると、家の上に虹がかかっていて、笑う。
P222
この冬は、久しぶりに映画音楽に取り掛かっている。・・・
・・・
・・・ある日、ようやく「ああ、これだ!」といとおしいメロディが歓びと共に降ってきた。
やったあ、よかったよかったと監督にも送ってみたけれど、どうにも反応がいまいちだ。・・・
・・・「ここから先、どのように進めればいいと思われますか」と苦し紛れに監督に尋ねてみると、「今まで出してもらったスケッチは一度忘れてもらって、いつもの高木さんの感じでやってもらえれば。『いつもの高木さんで』、それだけを望んでいます」と穏やかな笑顔でおっしゃった。
あれ?いつもどおりに……、自分の思うままに……、そうやって進めたのがこれまでのスケッチだったのに……???そもそも「いつもの自分」っていったいなんだろうと、ぐるぐる目眩のするような問答の穴に落ちてしまった。
・・・
・・・思いついたメロディを演奏して、よし、おもしろい感じになってきたかもと、再び監督に送ってみる。「いや、うーん。何かが違うというか。ほんとうにいつもの高木さんのままでやってもらえればいいのですが……」と困っている返答だった。「映画に寄り添い過ぎているのかもしれません。しばらくは僕の言葉を横に置いてもらって、出来上がってきた映像も見ないでもらって。今まで高木さんにお伝えしてきた言葉は、映画に対する僕のひとつの解釈に過ぎませんから。高木さんは高木さんで、映画全体を俯瞰的なところから見てもらって、そこから音を奏でてもらえれば」。
何かがピンときた。そうか、「いつもの自分らしく」。そういうことか。僕の勝手な思い込みだったり、妄想をそのまま表に出してしまっていいということか。・・・相手に寄り添おうとするのは大事なことだけれど、相手の心と同じになろうとしてしまうと、「自分らしい心」は消えてしまう。相手が赤だと思っていても、こちらが青だと思っていたなら、それでよかったのだ。一緒になれば紫になる。それも単純な紫ではなく、時には赤になったり、赤っぽい紫だったり、真っ青になったり、自在に変化するおもしろい色彩。誰かと一緒に何かを生み出すというのは、そういうおもしろさだなあと、改めて気がついた。
・・・
もう自分がやるべきことがわかった。音が頭の中で流れ出したので、それを拾っていく、ただただ、こぼれないように受け止めていく。そのメロディが、いいか悪いか、そういうことはわからないけれど、そのまま監督に送ってみる。「ああ、これですよ。欲しかったのはこれです。このまま進めてください」。ほっ、ようやく、はじまった。
生まれてきた人、それぞれが持ち合わせている「いつもの自分らしさ」、それぞれのきらきらした宝もののような眼差し。それが交わったり離れたり、はみ出していったりしながらも、同じ方向に向かって、待ち受ける未来に辿り着く。・・・
P239
誰にも知られなくていい、ずっと自分の一番素直な中心から、それと同時に一番遠く自分から離れた宇宙の果てに、その間のどんな時空でもいとおしいような、そんな心でありたい。
昨日の夜、庭の小川を覗いてみたら、蛍がたくさんふわふわと暗闇を泳いでいた。たくさんの光が一斉にゆったりと瞬いて、大きな呼吸をしているみたいだった。