あたらしい移住のカタチ

あたらしい移住のカタチ

 素敵だな~と思う方ばかりでした。

 

 福岡県糸島市に移住した藤田さん

P18

「こころとからだ、食べるもの。自然とともにあること、宇宙の一部であること。〝わたし自身のものさし〟を見つけること。これがくらすことの大きなテーマです。それを、この自然豊かな地で、家族とともに実践して、自分の生き方を通してそれを伝えていけたらと思っています」。

 

 山梨県北杜市に移住した内藤さん

P23

 何年か前に神奈川県横浜市菊名に「山角」というパン屋さんを訪れたことがあった。山角はパン好きのなかでは名の知れた存在で、駅から少し離れた、住宅街というわかりづらい場所にあったにもかわらず、ぼくが訪ねたときも先客がいて、すでにほとんどのパンが売れてしまっていた。

 ・・・

 山角のオーナー・内藤亜希子さんが、故郷である神奈川県から山梨県へと移住したのは今から5年ほど前。34歳のときのことだ。ふとしたきっかけで清里にあるホテルのチケットを知人から譲り受け、訪れてみたのがこのエリアとの出会いだった。「旅行で来たんです。そのときに辺りをぐるっと見てまわったら、雰囲気がすごく気に入って。その後、何度も来るようになりました」。

 ・・・

 ・・・北杜市の四季折々を何度も訪ね、どんな町なのか空気感を肌で直に感じ取り、自分に合いそうだと判断して、移住を決断した。・・・「パン屋だったらどこでもできるし、ちょっとこの辺いいんじゃない?という感じで移住しちゃいました。不安は特になかったですね」。

 ・・・「パン屋の前はカフェで働いてたんです。パンも修行したわけではなくて独学です。元々これをやりたいとか強く思ったことがなくて、風の吹きまわしでここまで流れてきた感じなんです。パン屋は自分の暮らしがしやすいからやっていて、今は絵も描くし、料理もなんでもします。山が好きなのでギアについて学びたくて、アウトドアショップでアルバイトをしたり、野良仕事のお手伝いもしています」。

 ・・・

 ・・・今年、内藤さんにとってまた新たな展開が待っている。年内にオープン予定のゲストハウスの敷地内に、お店を持つのだ。

「仕事や暮らし、遊び方も変化し続けたいと思っています。1年先のことなんて本当に想像もできないけれど、想像をしていないところにいくのが楽しいんです。仕事に関しては次のステージに向かって動いているけれど、今度は1から10まで自分一人で完結するパン屋じゃなくて、山梨で出会ったユーモアある人たちと一緒につくっていきたい。彼らの得意なところは彼らにお任せして、適度に接点を持ちながら、パン屋だけどパン屋じゃない、何者か、何屋かわからないミックスジュースみたいなお店をしたい。そしてせっかく近くに山があって豊かな自然のある最高のフィールドに暮らしているのだから、もっともっと自然を楽しむ暮らしにシフトしていきたいです」。

 ・・・

 ・・・「もし明日、何か面白い話があったらそっちに移住しちゃうかもしれないです。暮らすのは都会じゃなければどこにでも行けます(笑)。でも今はこの場所が好きなので、ここにいたいと思っています」。

 

 山口県長門市に移住したいのまたさん

P81

 山口県長門市の山間部にある俵山温泉。・・・そのささやかな温泉街からまた少し離れた場所に、いのまたせいこさんのお店はある。見渡せば周囲は山ばかり。畑の脇を通って石段を登ると、薄いブルーのかわいらしい扉と、ちいさな看板に「ロバの本屋」の文字。・・・

 東京都出身のいのまたさんは、中学生の頃から「東京以外で暮らしたい」と考えていたそうだ。・・・だから専門学校を卒業したらすぐに新潟へと移り住んだ。「新潟を選んだのはおばあちゃんが住んでいたから。趣味でやっていた陶芸も続けたかったので、自営業をするのが現実的かなと思い、調理師免許を取り、おばあちゃんの家のそばに親戚の大工のおじさんに建物を建ててもらって喫茶店を開いたんです」。

 ・・・

 3年ほど喫茶店を営んだのち、「次は暖かいところに住みたい」と地図を開き、早速一番南にある沖縄を目指すことにした。・・・さらに石垣島へと渡ってみた。そこは程良く田舎で、本好きのいのまたさんにとって大切なポイントの、良い図書館もあった。だから移住先を石垣島に決めた。

 東京の実家に戻り、バイクで持てるだけの荷物を持ち、家も仕事も決めずにフェリーで石垣島へと向かった。・・・

 ・・・あるとき自宅の庭で焚き火をしていると、煙の向きが悪かったのか、隣家の住人にひどく怒られてしまう。・・・「この場所で暮らすことは難しいかな」と思い、家を出ることに。その後は納得のいく家をゆっくり探そうと、テントを買ってキャンプ場へ。テントの前にブルーシートで屋根と簡単な台所をつくり、なんと4~5か月ほどキャンプ場での暮らしを続けたという。一方、仕事はたまたま取材に来た石垣島の出版社がスタッフを探していて、本づくりの経験は全くなかったけれど、出版社で働くことになった。家賃2万円ほどの家を見つけ、それからは会社勤め。「石垣島に来てから物欲が全くなくなって、一人暮らしなら、7万円あれば暮らせるなと思って、それ以上はわざと働かないようにしていました」。

 ・・・

 いのまたさんの話を聞いていると、よく出てくる言葉に「とりあえずなんとかなると思って」、というのがある。例えばバイク一つで石垣島に移住することとか、キャンプ場で暮らすことも淡々と語るから、ついなんでもないことのように聞こえてしまうけれど、客観的に考えればちょっとすごいことだ。それでも軽々と実現させてしまうのは、楽観的なようでいて、実はしっかりと現実を見据えているからではないだろうか。この環境なら、このくらいの収入があれば自分が心地良く暮らせる、そしてその金額を得るにはどのくらい働けば良いのか、というモノサシをしっかりと持っているのだ。

 ・・・

 ・・・そしていのまたさんは再び、地図を開いたのだ。

「前に住んでいた石垣島は離島だったから、今度は陸続きの場所で、家賃は2万円まで」。・・・家賃2万円は、「2人暮らしなら10万円あれば楽しく暮らせるし、貯金もできる。それぐらいの金額だったらアルバイトでもなんとかなるだろう」と思ったから。その条件で、物件探しをスタートした。

 ・・・

 借りた家は20年ものあいだ空き家だったので、傷みがかなり激しかったけれど、和室2室は使える状態だったので、そこで寝泊まりしながらコツコツと改装をした。台所にあった井戸は、夏の日照りで枯れてしまい、しばらくは近くの川で水浴びをして、水を汲んでくる生活。全壊だったトタン屋根は改修し、半年ほどでおおむね家がなおってきたところで、「貯金も尽きてきたし、働きながらゆっくりなおしていこう」ということに。

 その頃は、お店をやるつもりはまだなくて、「里山ステーション俵山」という地域交流施設でジャムやお弁当をつくるアルバイトをしながら暮らしていた。・・・

新しい場所で働く時に大切なこと

1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人 1キロ100万円の塩をつくる (ポプラ新書)

 「新しい場所で働く時に大切なことって、『私は仕事ができる』ということを見せることじゃない」、このことは見落とされがちなような気がして、印象に残りました。

 

P164

 2011年11月。斎藤まゆさんは、フランスのシャル・ル・ドゴール空港から全日空ANA)の飛行機に乗り、日本に向かっていた。彼女はその2年前、山梨で誕生したばかりのキスヴィン・ワイナリーのオーナー、荻原康弘さんからスカウトされて、同ワイナリーの醸造家に就いた。しかし、自社醸造所の完成が遅れていたため、フランス・ブルゴーニュ地方のシャブリ地区にある名門ワイナリーと、ピノ・ノワールが有名な産地イランシーのワイナリーで、ブドウの収穫と醸造を学ぶ修業に出た。1年以上にわたったその修業を終えて、帰国の途に就いたところだった。

 ・・・

「いつか、自分がつくったワインを飛行機のファーストクラスにのせたい。ビジネスクラスじゃなくて、絶対にファーストクラス!」

 それから9年の月日が過ぎ、迎えた2020年6月。全日空の国際線ファーストクラスで、日本のブドウ「甲州」を使ったANAオリジナルワインの提供が始まった。・・・ワインをつくったのは、斎藤さんが醸造家を務めるキスヴィン・ワイナリー。・・・

 ・・・

 ・・・2000年、大学2年生の夏休みに・・・ほかの学生たちと出かけたボルドーブルゴーニュコルシカ島を巡る旅での出来事だった。

 老夫婦が経営するボルドーの小さなシャトーに立ち寄ったその日は、からっと晴れ渡り、濃いブルーの空が広がっていた。

 老夫婦は「この場所であなたたちと出会えて、一緒に乾杯できることをとても嬉しく思います」と挨拶し、ブドウ畑で自分たちのワインを振る舞った。爽やかな風が吹き、青々としたブドウの葉が揺れる。老婦人は穏やかに微笑みながら、学生たちと言葉を交わしていた。その瞬間に、心を奪われた。

「・・・生きるということについて、とっても迷っていた時期でした。だから、ワインづくりというひとつの仕事をしながら年を重ねてきたおばあちゃんを見た時に、素敵だな、私もああいうおばあちゃんになりたいなと思ったんです」

 ・・・ 

 斎藤さんが目指したのは、農業分野では世界トップクラスとして知られるカリフォルニア州立大学フレズノ農学部のワイン醸造学科。1400エーカー(およそ東京ドーム122個分)のキャンパスを誇り、校内に農場や牧場、そして受賞歴のあるワイナリーを持つこの大学は、素人でも5年間でワインの専門家に育て上げる体系的なプログラムを持っていた。

 ・・・入学した斎藤さんは、・・・入学当初から、ある目標を定めた。

「うちの学科は伝統的に、卒業する学生のなかでひとりだけ、ワイナリーのアシスタントとして1年間、学校に残ることができるんです。学校がビザを取ってくれて、給料をもらって働ける。どうしてもその枠に入りたかったんです。業界に出ると、失敗は許されません。でも、大学のワイナリーは学生がいろんなことを試行錯誤するためにあります。アシスタントになれば、自分が失敗をしながら学ぶことができるだけでなく、学生の失敗も間近に見ることができるじゃないですか。そこから得るものはとても大きいと思って」

 ・・・

 この環境を求めて、ワイン醸造学科にはモチベーションの高い優秀な学生が集まってくる。そのなかで「ひとり」に選ばれるためにはどうしたらいいのだろう?斎藤さんは、心に決めた。雨の日も、風の日も、毎日のように校内のワイナリーに顔を出し、掃除でも雑用でもなんでも手伝った。大学の指導陣だけでなく、ワイナリーのスタッフに「熱心で使える若者がいる」と印象付ける作戦だ。

 1年生の時からワイナリーに通い詰め、大学生活が5年目に入ったある日のこと。いつものようにワイナリーに足を運ぶと、専任のスタッフが微笑みながら声をかけてきた。

「まゆ、アシスタントにならない?」

 ・・・

 ・・・2010年9月、斎藤さんはフランス・ブルゴーニュ地方の最北に位置するシャブリ地区で1792年よりワインをつくっている名門ワイナリー「ドメーヌ・ジャン・コレ」にいた。・・・醸造家としての修業先を紹介してもらったのだ。

 フランスへ向かう機内で、斎藤さんはこう考えていたという。

「私は相撲部屋に入るんだ」

 日本にやってくる外国人力士はみな、同部屋の日本人力士たちと寝食を共にしながら、日本語や文化を学び、心技体を鍛え、日本の国技である相撲で成功を目指す。翻って、ナンバーワンのワインの産地といえば、フランス。その厳しい世界で認められるためにはどうすればいいかを考えた時に、子供の頃から相撲が大好きな斎藤さんは、「相撲部屋に入る外国人力士」を自分に重ねた。

 ・・・手伝いは当初、ブドウの収穫と醸造で最も忙しい9月、10月の2カ月間だけ、という話だったが、結果的に1年以上をフランスで過ごすことになった。オーナー一家から「もうちょっといない?」という引き止めが続いたのだ。

「多分、新しい場所で働く時に大切なことって、『私は仕事ができる』ということを見せることじゃないんです。それよりも、もともと働いている人たちが仕事をしやすいように、彼らのペースに合わせてサポートをしたり、言われる前に掃除をしたり、頼まれもしないのに毎日畑に足を運んでブドウの様子を報告する。私はそういうことをアメリカでもひたすらやって喜ばれたし、フランスでもうまくいきました」

 能力をひけらかすのではなく、チームの一員として誰よりも懸命に働く。これが「相撲部屋に入った外国人力士」である斎藤さんが選んだ道だった。

 ・・・

 よく気がつく働き者の日本人を、オーナー一家はよほど気に入ったのだろう。「せっかく来たんだから、赤ワインの勉強もしてくといい」と、シャブリの南西、ピノ・ノワールが有名な産地イランシーにあるワイナリーの仕事も紹介してくれた。・・・

 ・・・

 2017年6月13日。斎藤さんは、胸の鼓動が速まるのを感じながら、目の前の男性の反応をうかがっていた。

 ・・・ジェラール・バッセさん。第13回世界最優秀ソムリエコンクールの優勝者であり、ワイン界の最難関資格マスター・オブ・ワインとマスター・ソムリエの資格を持つ、斎藤さんいわく「ワイン界の神様みたいな人」だ。

 バッセさんは、斎藤さんが醸造した白ワイン「キスヴィン シャルドネ 2014」を口に含むと、次の瞬間、頬を紅潮させながら小さく叫んだ。

「なんだこれは!うまいじゃないか!」

 見るからに前のめりになったバッセさんが、斎藤さんに尋ねた。

「このワインは何本つくっているの?」

「1700本です」

「OK、1500本、俺が買う」

 え?斎藤さんは一瞬耳を疑ったが、バッセさんの眼差しは真剣そのもので、冗談を言っているようには見えない。ガッツポーズしたくなる気持ちを抑えて、頭を下げた。

「ごめんなさい、売り切れなんです」

「なんと……」

 ・・・

 会合が終わり、少しフワフワした気分で会場を後にした斎藤さんと荻原さんは、山梨の塩山へ帰路に就いた。・・・一息つきながらスマホを開き、ツイッターを確認した時、それまでの高揚した余韻が一気に冷めた。

 バッセさんが、「ユニークでセンセーショナル」「才能豊かなワインメーカー」として、「Mayu Saito」の名前をツイッターに記していたのだ。新興ワイナリー、キスヴィンの名とともに、醸造家「Mayu Saito」の存在は、世界に拡散された。・・・

自然栽培のお茶

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 こんな感覚で前に進んで行けたらいいなぁと・・・

 

P46

 面積の8割を山林が占める、兵庫県神河町。西側に砥峰高原と峰山高原が広がり、東側に清流・越知川が流れ、町なかには5つの名水が湧く。なんだかずいぶんと清々しい空気で満ちていそうなこの町では、300年前からお茶がつくられている。その味は当時から評判で、「人形寺」として知られる京都の尼寺、宝鏡寺から、享保10年(1725年)に「仙霊」という銘を授かった。

 ちなみに、現代はお茶の生産者がどんどん少なくなっている。・・・

 仙霊茶も同じ運命をたどり、後継者がいないという理由で約300年の歴史に幕を下ろそうとしていた。その時、「じゃあ、俺、やっていい?」と軽やかに手を挙げた人がいる。神河町にも、茶園にも、縁もゆかりもなかった、元サラリーマンの野村俊介さん。2年間の研修を経て、2018年春、東京ドーム1.7個分に相当する仙霊茶の茶園を引き継いだ。そして今、農薬を使わず、肥料も与えない「自然栽培」のお茶づくりに挑んでいる。

 ・・・

 1978年、神戸で生まれた野村さん。姫路にある大学を出て、神戸に本社がある医療機器メーカーに就職した。

 ・・・

 ハードな仕事ではあったが、もともと人と話をするのが好きで、物おじしない野村さんは「むっちゃ楽しかった」と振り返る。営業成績も、悪くなかった。

 ただ、意味や必要性を感じないルールに縛られるのが嫌いという性格で、誰よりも遅刻をする社員だった。クライアントとのミーティングには決して遅れないが、特別な理由もないのに「朝8時に出勤しろ」と言われると「なんで?」と疑問を抱き、受け入れない。

 ある日、度重なる遅刻を見かねた上司に呼び出され、喫茶店でこう命じられた。

「来週の月曜日、全体のミーティングがあるやろ。絶対に遅刻するなよ。そこで、僕は今月一回も遅刻しませんって宣言しろ」

「え、嫌です」。野村さんのあまりにストレートな返答に、上司も仰天したのではないだろうか。もちろん、それから遅刻が減ることもなかった。

 ・・・

 ・・・

 会社では、期待される役割を果たせそうにない。資本主義も揺らいでいる。この気づきを経て、「独立独歩で生きていける道を探したほうがいい」と思い至った。

 さて、これからどう生きるべきか。新しい道を模索し始めた時に、高校の同窓会で同級生と再会した。そのうちのひとりと話をすると、無農薬、無肥料の自然栽培で米と大豆を育てていて、収穫した米と大豆を使って味噌とどぶろくをつくっているという。さらに、稲に与える水を豊かにするために、冬は林業をしていると話していた。・・・

「こんな生き方があるなら、これが一番面白いかもしれん。資本主義も終わるんやから、これが一番強い生き方だ!」

 その場で、同級生に「こっちに来たら、いろいろ教えてくれるの?」と尋ねると、「いいよ、なんぼでも」と返ってきた。その言葉を聞いて、野村さんは軽やかに決心した。

「ほんなら会社辞めるわ」

 ・・・

 しばらくすると、突然脱サラして未経験で農業を始めた野村さんのもとに、友人、知人が遊びに来るようになった。きっと大胆な決断に興味を持つ人も多かったのだろう。

 暑い盛りの8月、訪ねてきた友人のひとりが「お茶に興味がある」というので、知人の茶園に一緒に出向いた。そこで「神河に新規就農者を探してる茶園あるで」と聞いた。

「渡りに船!」とふたりで向かったのが、仙霊茶の茶園だった。・・・

 しかし、その友人は東京ドーム1.7個分、およそ7ヘクタールの茶園が「広すぎる」と、気乗りしない様子だった。そこで、野村さんは友人に尋ねた。

「じゃあ、俺、やっていい?」

 完全なる勢いだった。

「もともと、お茶にはぜんぜん興味なかったんですけど、とにかく一面の茶畑を見て大感動したんですよ。こんな条件のところはほかに絶対ないと思ったし、すぐにやりたいっていう人が現れるだろうから、それはもったいない、俺がやろうって思ったんです」

 景色や環境のほかに、もうひとつ、野村さんが惹かれたのは、過去10年ほど、農薬が使用されていなかったこと。話を聞けば、もとの生産者がオーガニックを目指していて、というわけではなく、お茶の需要の低下と高齢化もあって「機械も高いし、農薬を撒くのがしんどかった」という理由だったが、自然栽培を志向する野村さんにとっては願ってもないことだった。

 ・・・

 それにしても、である。農業を始めて数カ月で広大な茶園を引き受けることに不安はなかったのだろうか?

「生姜とごまをつくっていた時と違って、お茶は樹なんで安心感があるんですよ。普通の農業は、つくったらぜんぶ収穫してリセットするじゃないですか。ごまの種を蒔きながら、不安なんですよ、芽が出てくるまでは。もしかしたら全滅かな、全滅したらまるっと赤字やなって。たいして儲からないのに、ギャンブルみたい。でも、お茶は樹だし、何年も無農薬で育っているから、茶畑に来た時の『今日もちゃんと生えている』という安心感はすごいんです(笑)」

 ・・・

「研修をしている時に実感したんですけどね。普通の茶園って、別の農家さんの茶園と隣接してるんです。だから、無農薬でやると言ったら、お前のせいで虫が来るとか、お前のせいで雑草の種が落ちるとか怒られて、村八分どころじゃない。でも、ここは国道からすごく近い便利な場所にあるのに奥まったところで独立しているから、誰にも迷惑をかけない。こんなところはほかにありません、奇跡的ですよ」

 ・・・

「日本では、無農薬のお茶って数%しか栽培されていないんですよ。でも、そこには確かな需要があって、自然栽培のお茶を飲みたいという人が、口コミで会員になってくれるんです。ここまで反応がいいとは思ってなくて、これはすごいなと思いましたね」

 ・・・

 野村さんが仙霊茶を育む茶園のオーナーになって、3年目。まだまだ黒字化には遠いが、「どうにかなるでしょう」と楽観的だ。そう思えるのはきっと、野村さんのもとにユニークな仲間が集まってきているから。仲間がいることで新しいアイデアがさらにどんどん湧いてきて、一緒にそれを実現するのが楽しみで仕方ないという昂る想いが伝わってくる。・・・

1キロ100万円の塩をつくる

1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人 1キロ100万円の塩をつくる (ポプラ新書)

 「稀食満面」を読んで、こちらの本も読みたいなと気になっていました。

https://blog.hatena.ne.jp/ayadora/ayadora.hatenablog.com/edit?entry=4207112889982612761

 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人のみなさんが紹介されている本。

 魅力的な方ばかりで驚きでした。

 

P20

 京都の福知山駅から車でおよそ40分。兵庫県丹波市に入り、のどかな田園地帯を抜けていくと、緑が眩しい甲賀山の麓に小さなパン工房がある。そこには、日本全国から個性的な食材が届く。ある日は、青森のリンゴ農家がつくったライ麦。またある日は、八ヶ岳の標高1000メートルの畑で獲れた無農薬栽培の巨大なビーツ。時には、台風で停電になり、冷蔵庫が使えなくなった千葉の農家から、ニンジン10キロ。

 頭をひねり、あの手この手で、これらの食材を使ったパンを創作するのは、塚本久美さん。2016年、全国的にも珍しい通販専門のパン屋「HIYORI BROT(ヒヨリブロート)」を立ち上げたパン職人だ。・・・

 ・・・

 それにしても、なぜ、塚本さんのところに多様な食材が集まってくるのか?あるいは、集めているのか?これは「パンづくりは、材料ありき」「パンはひとつのメディア」と話す、ちょっと変わったパン屋さんの物語である。・・・

 ・・・

 ・・・

 もうひとつ、塚本さんのパンづくりを方向づけたのは、ドイツでの出会いだった。2011年、志賀シェフから1カ月の休みをもらった塚本さんは、ベルリンを目指した。そこには、学生時代に友人と旅行した際、一度だけ訪ねたことがあるパン屋があった。

「その時、石臼で小麦を挽いているのを初めて見て、衝撃を受けたんです。今は日本でも石臼で挽いているパン屋さんが少しずつ増えていますけど、当時は日本で見たことがなかったから。しかも、すっごくおいしかったんですよ」

 ・・・ベルリンに着いてからアポなしでお店に飛び込んだ。

「この街に1カ月いる予定だから、働かせてくれませんか?」

 ・・・突撃訪問に並々ならぬやる気を感じたのか、3日間の見学が許された。

 そのパン屋さんは、ドイツのオーガニック認証「デメター」の最も厳しい基準をクリアしていた。食器を洗う洗剤でさえ、化学的なものは使えないハードルの高い認証だ。使う小麦もすべて無農薬、無化学肥料で、さらに天体の運行などによって種を蒔く時期や収穫時期を決めるバイオダイナミック農法でつくられているものに限られていた。

 ・・・

「うちは、だいたい30キロ圏内で獲れたものを使ってると思うよ。みんな知ってる農家のものだし。だって、誰がつくったかわからないものを使うのは、怖いじゃない」

 塚本さんの胸には、ドイツで見た光景とこの言葉がずっと残り続けた。

 それから少し時が流れ、シニフィアンシニフィエを辞めて、独立に動き始めた2015年、島根県石見銀山で友人がパン屋を開くことになり、オープンに合わせて、3カ月ほど手伝いに行った。その間に、塚本さんあての食材が届くようになった。きっかけは、島根に出向く前に会った、蕎麦屋の友人との会話だった。

「久美ちゃんちょっとさ、この小麦、使ってみてくんない?」

「え?」

「うちで使っている蕎麦の農家さんが裏作で小麦をつくってるんだけど、売り先がないのよ。農協に卸すとびっくりするぐらいの安値でしか買ってもらえなくて、牛の餌になるのが関の山じゃないかって気がするの。けっこう真面目につくってるのにそれは寂しいから、パン焼いてみて」

 はい、とおもむろに渡された小麦を持ち帰った塚本さんは、東京でパンをつくってみた。それが思いのほかおいしく、「開業した際にはぜひ使わせてほしいです!」と友人に連絡をしたところ、その蕎麦農家さんもよほど嬉しかったのか、島根まで小麦を送ってきたのだ。その小包のなかには、小麦をつくっている畑の近くになっていたという柚子も入っていた。

 そこで、今度は柚子を使ったパンをつくり、送り返した。それにまた大喜びした蕎麦農家さんは、次に近所中から集めて、たくさんの柚子を送ってきた。手伝い先のシェフも面白がって、一緒にその小麦で柚子を使ったパンを焼いた。その時に、ふとドイツでの出来事を思い出した。

「あ、ドイツのおじちゃんが言ってたあの言葉って、こういう感覚かな?」

 この時、塚本さんは心に決めた。

「こういう感じで、なるべく顔が見える生産者さんのものを使おう!」

 ・・・

 塚本さんは、直感的に「これだ!」と思ったら、その気持ちを大切にする。工房の場所だけでなく、働き方もそうだった。

 ・・・

 ・・・

 日々、さまざまな食材を紹介し、失敗も成功もオープンにしているヒヨリブロートのSNSは今、メディアとしての影響力を持ち始めている。塚本さんがある日、佐賀のチーズ生産者がホエーを使ってつくったチーズをSNSにアップした。ホエーとはチーズやバターをつくる段階に出る液体で、通常だと廃棄されるもので、その試みとおいしさに感嘆しての投稿だった。すると、そのチーズの生産者のもとに続々と注文が入ったという。

 その逆のパターンもある。例えば、台風が来ると、生産者は事前に作物を収穫する。台風による被害を避けるためなのだが、そうすると、市場が同じような野菜でいっぱいになって引き取ってもらえなくなる。野菜の鮮度は落ちていく一方だから、最終的には二束三文で買いたたかれるか、廃棄処分になる。

 そこで、台風が来ると、塚本さんは予め「うちが定価で引き取ります」とSNSに投稿する。それを見た生産者が、市場に持っていけない作物を塚本さんのもとまで届けに来る。塚本さんはそれを適正価格で買い取り、乾燥させたり、漬け込んだり、ソースにして保存するのだ。買い取るのは、近隣の生産者に限らない。冒頭に記したニンジン10キロも、千葉の生産者が台風で停電になり、冷蔵庫が使えなくなって困っていると知って購入したものだし、コロナ禍でも北海道の生産者から過剰在庫になったジャガイモを10キロ購入した。

「今って、大きいサイクルより、小さなサイクルがいっぱい、いろいろなとこにあるほうがいいような気がしていて。だから、私がやることをまねしてくれる人がどんどん出てきてくれたらいいなぁと思うんです。私は丹波のものを使う機会が多いけど、日本各地にできたら、それぞれの地元の食材を引き受けられるじゃないですか」

こんなに違う⁉ドイツと日本の学校

こんなに違う!?ドイツと日本の学校 ~「自由」と「自律」と「自己責任」を育むドイツの学校教育の秘密

 どちらにもメリットデメリットあると思いますが、いろいろあるんだと知っていると視野を広く持てていいなと。

 この休み時間のエピソードは、とてもいいなと思いました。

 

P138

 日本の学校では、授業間の休みは10分の学校が大多数でしょう。この間、生徒は教師に呼び出されたり、終わらなかった宿題に取り組んだりして、慌ただしい時間を過ごします。あるいは、教師から「授業中に終わらなかった演習は、休み時間や放課後を使って終わらせましょう」と、指示が出る場合もあります。

 一方、教師の休み時間はというと、次の授業の準備、または質問に来た生徒への対応などが多いようです。

 私も授業のあとはだいたいクラス内にとどまり、数学の質問を受け付けています・・・。

 このように、日本の休み時間は「次の時間への準備時間」「整理や振り返りのための時間」といった考え方で成り立っています。

 さて、ドイツの休み時間はどうでしょうか。

 ドイツの休み時間は20分間あり、休み時間に対する考え方は、言葉のとおり「休むための時間」です。生徒は、年齢が異なる生徒同士で遊んだり、携帯ゲームをしたり、あるいは持参したスケボーで遊んだりと、個々人が自由に遊ぶことができます。

 ・・・

 生徒が自由に休憩できる休み時間は、教師にとっても休憩の時間です。

 職員室の扉には次のような貼り紙があります。

「PAUSE」とは、ドイツ語で「休憩」という意味です。書かれた文面を単純に和訳すると、「教師も休憩したいです。20分間ある休憩時間のうち、最後の5分は質問を受け付けます」となります。ということは……。

 最初の15分は質問を受け付けない、という強い意志が表れています!

 さらに貼り紙の文面はこのように続きます。

「その質問は本当に今でなければダメですか?次回の授業中ではダメですか?」

 質問に来た生徒を追い返そうとしています!

 ちなみに、最後の「DANKE」は「ありがとう」という意味です。

 もはや何が「ありがとう」なのか、まったくわかりません(笑)。

 教師にとっても休み時間は、「休むための時間」。

 そのことが、とてもわかりやすく理解できる貼り紙ですね。では、このような貼り紙によって閉ざされた職員室の中は、いったいどうなっているのでしょうか。

 職員室では、先生方の多くがコーヒーを飲みながら談笑してくつろいでいます。

 職員室に限らず、研究室でも大学の講師室でも、とにかく休憩時間となるとコーヒーを片手に談笑するドイツ人が多いのです。そして、なかにはトランプで遊んでいる先生なんかもいたりします。

「休み時間は休むための時間」ということが、とても明確です。

「身体」を抜け出す「私」

他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 (集英社新書)

 やや難解ですが(;^ω^)面白いなぁと感じたところです。

 

P198

 メラネシアでは、ひとは眠っているあいだに遠い村で盗みをはたらいたという非難を甘んじて受け、身の潔白を証明するアリバイをもち出したりせずに罰に服する。というのも彼らは、睡眠中に分身という不思議なやり方で自分が何をしでかしたか知らないからなのである。

 

 これが先に記した『ド・カモ』からの一説であり、著者はモーリス・レーナルトである。レーナルト(1878-1954)は、オーストラリアの東に浮かぶニューカレドニア島で25年間宣教活動に従事した宣教師である。滞在中には現地の住民であるカナク人との交流を深め、かれらの言語を習得、慣習にも親しんだ。帰国後は、先に紹介したモースらとの知遇を得て人類学者としての経歴を積み重ね、1947年に同書を書き上げる。

『ド・カモ』には、「自我」が身体から抜け出すといった、私たちの感覚からすると大変奇妙なカナク社会の現象が豊富に描かれる。このようなことが可能になる理由のひとつが、カナク人に「身体」の概念がないことだ。「身体」の概念を持たないかれらは、当然ながら「身体」に拘束される固有の<自我>という観念も持っていない(自我に括弧を付したのは、それが理由である)。結果、生者と故人の区別も曖昧となり、自分と親族、自分と樹木といった、私たちであれば自分とは異なる生き物として差別化する他者との間に、瓜二つといった比喩ではなく、真の同一性を見出す。

 とはいえ、カナク人にも「身体」に近い言葉はあり、それが「カロ」である。しかしこの言葉が厳密に指すところは生物学的な意味での「身体」ではない。それは「支えるもの」という意味を持つ。従って、テーブルの天板を支える足も「カロ」、刃が付属する斧の柄も「カロ」である。

 それでは私たちが「身体」と呼ぶ「カロ」は一体何を支えているのか。「カロ」が支えるものは「カモ」である。「カモ」とは、「生きている者」という意味であり、より正確にいうとそれは、人間らしい雰囲気をたたえた生きた何かのことを指す。従って「カロ」は大抵の場合人間のことを指すのだが、「カモ」は人間ではない生き物に対しても時に使われる。なぜなら動物でも、植物でも、神話的な存在でも、カナク人がそこに何らかの人間らしさを見てとれば、それらは「カモ」と呼ばれうるからだ。例えばカヌーに打ち上がった魚が人間らしい目つきをしていたらそれは「カモ」である。逆に人間の姿格好をしていても、その人物が人間らしくない行動をとっていれば「あいつはカモ」ではないと断言される。

 同書のタイトルである「ド・カモ」は、「本当に人間らしいもの」という意味であり、ある生き物が人間らしさを十全にまとっていると判断されれば、その生き物は敬意を込めて「ド・カモ」と呼ばれる。

 それでは一体「カモ」とは何なのか。そのような問いが読者の中には当然生まれるであろう。「カモ」はそれが何かと関係性を取り結ぶ時に初めて現れる「人物(ペルソナージュ)」であり、関係性を結ぶ相手が変われば、「カモ」は「カロ」としての身体を支えとしながら、異なった様相で現れる。カモは、「そうした関係の働きのなかで、自分の役割を果たしている程度に応じてのみ実在する。彼はそういう関係にかかわっていくことをとおしてのみ自らを位置づける」のである。その意味でレーナルトはカモを諸関係の「出発点」とし、しかしその場所は「空白」であるとした。なぜならカモは、諸関係の中心にありながら、関係性なしでは存在し得ないからである。

 レーナルトの人格論を引きつつも同時にそれを厳しく批判しながら、改めて人とは何かを論じたのが、彼と同様にメラネシアをフィールドとするイギリスの人類学者マリリン・ストラザーンである。・・・

 ストラザーンは1988年に上梓した『贈与のジェンダー』(邦訳なし。原著タイトルは❝The Gender of the Gift❞)の中で、分人(dividual)という言葉を使いながら、メラネシアの人々のうちには、メラネシア社会全体が小宇宙のように内包されており、置かれた状況状況に応じてぬるっと顔を出す存在が人であると提言した。その意味で人は、関係性の出発点ではなく、関係性の結節点に形を変えながら顕現する存在である。

 この点においてストラザーンとレーナルトの思想は類似しているが、他方でストラザーンは、関係性の中心に空白のカモがあるというレーナルトの理解は、誤りであると喝破する。このような理解は、個人が中心にあり、それが主体的に動いて関係性を構築するという欧米的な図式を彼が抜け出していない証拠であるとし、そのような中心はそもそも存在していないのだと説く。

 その上でストラザーンは、関係性の中で具現化して現れる<人>(person)と、行為する<人>(agent)を分け、そこで具現化される<人>も、行為する<人>も1人の様相を取りながら、同時に複数でもあるといった複雑な人格論を展開する。彼女の議論に所与としての人は存在しない。

 ストラザーンの議論は大変難解であることが知られている・・・

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 ・・・ストラザーンにとっての人とは、顕現したと思えばいなくなるような捉え所のない流動的な存在で、「1」といった塊として引き出せるような何かではない。もうひとつの重要な違いは、ストラザーンが、人の中には社会そのものが織り込まれており、それが状況に応じてある形で<人>(person)として顕現すると述べていること。またその織り込まれた社会の中には、他者のみならず、作物や体液などの物質も含まれているという点である。・・・

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 ギアツが出会ったジャワの人々は、レーナルトが出会ったカナク人同様、確立した個という人間観は持っておらず、自己(self)は「静止させられた感情の内部世界」と、「型にはめられた行動の外部世界」の対峙が起こる際に姿を現すと考えられていた。

 注意したいのは、ここでいう内部世界と外部世界が、心と身体という我々がよく使う区分に全く当てはまらないことである。先のカナク人の例で「カロ」が「身体」を指すわけではないことを思い出してほしい。

 それでは、ジャワの人々にとっての人はどのような存在なのか。まず、ジャワの人々にとっての内部世界(バティン)とは、感情蠢く内部世界のことであるが、バティンは私たちで言うところの心とか、自我の座を指してはいない。根本において全ての人は同一であり、その境地は瞑想によって神秘的に追求される。内部世界が理想的な状態に到達することをジャワの人々はアルースと呼び、これは「純粋な」「洗練された」「滑らかな」といった意味合いを持った言葉である。

 対して外部世界(ライール)とは、観察の可能な振る舞いや言葉のことである。これもまた内部世界と同様で、理想的な状態において、外部世界であるライールが個々人に応じて異なることはない。つまりギアツが出会ったジャワの人々にとっての理想とは、外部においても内部においてもアルースになることであり、その世界観における人とは外部と内部が対峙する際に現れ、うつろう、一時的なものに過ぎない。

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 これに類似した例として紹介したいのが、人類学者の木村大治の報告である。木村は、彼がフィールドワークを実施した熱帯アフリカ狩猟採集民バカ・ピグミーを「重なりあう人々」と名づける。木村によれば、バカ・ピグミーにおいて、個人(indivdual)といった概念はないとは言わないが極めて「薄く」、「個人性に重きを置く西欧近代的な社会観からすると、構成原理の重心が、個人そのものではなく、その間のつながりの方に大きくずれている」。・・・

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 ・・・木村は、会話において発話の宛先がはっきりしていなかったり、挨拶もなく部屋に入ってきてただ佇んでいることが許されたりするようなかれらの暮らしのあり方を提示し、これは「それぞれの人たちが情報を分け持って蓄えている共有のデータベースがあるようなもの」であると表現する。・・・「構成原理の重心が、個人そのものではなく、その間のつながりの方に大きくずれている」という木村の言葉から、バカの間で「私」という感覚が身体を境界にして途切れているのではなく、むしろふんわり共有されていることが窺える。

他者と生きる

他者と生きる リスク・病い・死をめぐる人類学 (集英社新書)

 

 義務や責任が、もともと個人ではなく地位や肩書に付随していたとは、言われてみればそれはそうか、当たり前に思っていることで疑わしいことはいっぱいあるなあと・・・

 

P188

 ・・・個人を所与とする見方に疑問を抱いていたのがフランス人類学の基礎を形作ったモースであった。モースは1938年の論述において、「個人」がヨーロッパにおいて自明なものになっていく過程に目を向けている。・・・

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 モースによれば、「意識的で独立的自立的かつ自由にして責任ある存在」という、西洋社会の基盤となる人の概念、ここで言うところの個人主義的人間観の萌芽は古代ローマにまで遡る。それ以前、あるいは世界の他の場所にそのような観念は存在していなかった。義務や役割といった日々生活する上で課されるあれこれは、あくまでも集団の中に存在する身分、地位、肩書きといったものに付随するものであって「個人」に内在するものではなかったのである。

 しかし法による統治が古代ローマにおいて始まったことをきっかけに、統治対象としての人の観念が芽生えてくる。つまり義務や責任といったこれまでは身分、地位、肩書きに付随していると考えられていた諸々は、これら個々人に直接に帰属すると考えられるようになったのだ。この逆転はいっけん不思議なことに思えるが、そうでなければ法による統治は完遂しない。

 このようにして生まれた人についての新しい観念は、のちにキリスト教、17、18世紀の哲学を経由し、さらなる変貌を遂げることになる。この段階で、人格を宿し意識を持った自我の概念が加えられたのだ。古代ローマにその萌芽を持つ、自由にして責任を持った法の統治の対象としての自我を持つ人の概念は、19世紀の初頭にようやく成立した、というのがモースの提言である。

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 第6章で提示した現代日本社会において頻回に利用される「自分らしさ」及びその類いとしての「患者の意思の尊重」「ありのままのあなた」といったフレーズは、個々の身体の中にその人の本質が眠っており、それを十全に引き出すことでより良い社会が到来したり、理想のケアが実現したりするという個人主義的人間観への私たちの信念と希望をよく表す言葉たちである。平成になって見られた「自分らしさ」の大増殖は、日本社会が個人主義的人間観を受容するようになり、その実現に救済を求め始めたゆえといえそうだ。

 しかし当然のことながら、このような「自分らしさ」の礼賛においては、モースとデュモンが注意深く分けて論じた「この私が存在する」という自分の存在についての実感と、法や道徳の中で長い時を経て醸造された「個人の観念」は分けられて考えられてはいない。これらふたつは分けられることなく「自分らしさ」という言葉の中にぐちゃっと投げ込まれていると考えるべきであろう。

「想像の共同体」の著者であるベネディクト・アンダーソンは、国家とそれを支える国民という概念が、国家と国民という概念を実体化させるさまざまな制度や測定尺度、それらを想起させる言葉とイメージが人々の間に流布したことによって、「国家と国民は確かに存在する」という想像力を人々が持つに至ったと述べる。これと同様に、「自分らしさ」が確かに存在するのだという「自分らしさ」への信念も、個人主義的人間観を可能にする制度、分類、イメージ、そして、それらによって想起・実践され、その回路を経て実体化された結果であることをモースとデュモンの提言は間接的に私たちに教えてくれる。