怒らないで生きるには

怒らないで生きるには (宝島社新書)

 ここでは紹介できないのですが、冒頭のしりあがり寿さんのマンガが、怒りってそういうことか・・・と、すごくわかりやすかったです。

 

P104

Q2 怒りっぽい人が怒っているというのはわかるのですが、生命は皆怒っているのだと言われると、いまいちピンときません。

 あらゆる生命に怒りがあるというのは、普遍的な真理です。ですから、そこに例外はありません。

 とはいえ、これはなかなかピンとこないことだとは思います。それには、一つ原因があると思います。それは、仏教で使っている「怒り」という言葉と、皆さんが日常使っている「怒り」という言葉のニュアンスが、少し違うということです。

 皆さんが日常生活で「怒る」といった場合、相手の失敗などに対して大きな声を出して怒鳴ったり、激怒するような状態を想像しているでしょう。それに対して、仏教でいう怒りとは、もっと範囲が広く普遍的なものを指していっているのです。

 仏教では世俗のあいまいな怒りの定義と異なり、その怒りの発生原因も明確に特定しています。仏教では、怒りの発生原因を「無常」であると考えています。

 無常とは、この世界のどんなものでも変わらないものはないのだ、という真理のことです。物事は瞬間、瞬間で変化、生滅していき、留まることはないのです。

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 ・・・真理は無常ですから、楽しい経験が永続することはありません。そのため、私たちは嫌な気持ち、暗い感情が生じ、やがてはそれが怒りとなってしまうのです。

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 ある国が日本に攻め込んできたとしましょう。その敵に立ち向かうことは、日本人の立場から考えるなら、「正しい怒り」といえそうです。でも、本当にそうでしょうか?

 この場合、日本を攻撃する立場の国から見るなら、日本人をやっつけることが正しい行動です。多くの日本人を殺すことに成功すれば「英雄」として褒め称えられるかもしれません。異常な話に聞こえるかもしれませんが、これは事実です。

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 そのように世俗の人間の考える「正義」などというものは、そのときどきで適当に変わってしまうものなのです。ですから、「正義の味方」になってやろうなどとは、ゆめゆめ思わないでください。「正義の味方」などという仮面の下で、私たちが本当にしたいことは、自分の怒りの正当化なのです。

 ですから、怒らないことを目指すといっても、自分自身の怒りと戦ってはいけないのです。いかなる場合にも、怒りは正当化されません。私たちは、怒りと戦うことなく、怒らない人格を育てなくてはならないのです。

 

P118

Q8 先ほど怒りの原因は「生きている」からだとおっしゃいましたが、そこのところをもう少しくわしく知りたいです。

 先ほども言ったように、私たちが怒る原因は、自我があるためです。私たちは、自分という実体があると信じていて、邪魔になるものがあったり、自分の思い通りに世の中が動かないときに怒るのです。

 では、怒ることはしかたのないことなのでしょうか。そうではありません。仏教では、「この自我という概念は脳の錯覚である」と説いています。私たちは錯覚にすぎないこの自我というものに操られて怒っているのですから、この自我というものが、本当は存在しないのだと理解することによって、怒りを克服できるのです。

 ですから、怒りを克服するためには、まず自我というものを正しく理解することが必要なのです。

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 皆さんも、スポーツや仕事に、我を忘れて夢中になったことがあるでしょう?そういうときのほうが、私たちはよい仕事ができることが多いのです。逆に、自分の自我が仕事に入ってしまうと、他人に嫌な印象を与えてしまうのです。

 私たちの仕事のほとんどは、共同作業です。自分一人でできることというのは、ほとんどありません。それなのに、自分の自我を出してしまったらどうなりますか?どんな仕事をやるにしても、うまくいきっこないのです。

 ですから、私たちが仕事をするときには、とことん自我をなくしておこなうことが必要です。そうすると、不思議とうまくいきます。誰もが「自分のみが正しい」と思わないで、スイスイと誰とも衝突することなく、生きていけるのです。

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 皆さんは仏教というと「自分」を否定した、暗い、つまらない教えだと思ってらっしゃるかもしれません。けれども、仏教で否定しているのは、この幻覚としての「自我」なのです。幻覚としての「自我」をお釈迦様の教えを実践することによって退治したときに、私たちが本当に生きるべき真の生活が訪れるのです。

 ですから、自我という幻想がなくなったら、蟻もゴキブリも皆すごく美しく見えるのです。彼らも毎日を懸命に生きているいじらしい存在だと、かわいく見える。

 反対に、自我があると無量にある生命の中で、ほんのわずかに自分に都合のよい存在しか美しく感じることができないのです。皆さんもそうでしょう?かわいいのは自分の家族だけで、それ以外の他人が不幸になろうとどうってことはないのではないですか。

 お釈迦様の教えを実践すれば、そのような「敵vs味方」といったくだらない区別が、全てなくなります。あらゆる生命が、自分の同朋、家族のように感じられるようになるのです。

 

P142

 結局のところ、欲のある人というのは、自分の脳の中で自分自身が貧乏であることを再確認していることになるのです。「まだ、足りない。まだ、足りない」と、自分で自分自身を洗脳している。俺は貧乏であると、どんどん思い込むことになる。そして、その結果として本当に貧乏になってしまうのです。

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 世間にはたくさんの金持ちがいますが、彼等も本当は皆、みじめなのです。いつでもセキュリティが必要でしょう?お金なんか持っていない、一般庶民と比べても強盗に狙われる確率が高いので、いつも気が気でないのです。

 ですから、私たちが本当にしなければならないことというのは、お金を貯めることではなく、心を成長させることなのです。瞑想などを通じて精神を統一することができると、心に強い喜びを感じるのです。これは、どのような芸術に触れることによっても、得ることはできません。心が統一され、集中してくると、私たちの細胞の一つ一つから喜びを感じるのです。

 

P163

Q25 僕にも子どもがいるのですが、子どもを教育するにあたり、わからなくなるときがあります。叱ると怒るの区別が特に難しくて……。

 自分が注意したことを、相手がきちんと聞いてそのように実行しないのならば、𠮟っても無意味ですね。ですから、人を叱るときには、相手がちゃんと修正できるように叱らなければなりません。

 ですから、ちゃんと相手に通じる、相手が認める、相手が直す気になる、という三拍子がそろっているのなら、それは正しい叱り方だといえるのです。

 

P250

 慈悲の瞑想

 

 私は幸せでありますように

 私の悩み苦しみがなくなりますように

 私の願いごとが叶えられますように

 私に悟りの光が現われますように

 私は幸せでありますように(三回繰り返し)

(「私は幸せでありますように」と心の中でゆっくり念じます)

 

 私の親しい人々が幸せでありますように

 私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように

 私の親しい人々の願いごとが叶えられますように

 私の親しい人々にも悟りの光が現われますように

 私の親しい人々が幸せでありますように(三回繰り返し)

(「私の親しい人々が幸せでありますように」と心の中でゆっくり念じます)

 

 生きとし生けるものが幸せでありますように

 生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように

 生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように

 生きとし生けるものにも悟りの光が現われますように

 生きとし生けるものが幸せでありますように(三回繰り返し)

(「生きとし生けるものが幸せでありますように」と心の中でゆっくり念じます)

 

 私の嫌いな人々も幸せでありますように

 私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように

 私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように

 私の嫌いな人々にも悟りの光が現われますように

 

 私を嫌っている人々も幸せでありますように

 私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように

 私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように

 私を嫌っている人々にも悟りの光が現われますように

 

 生きとし生けるものが幸せでありますように(三回繰り返し)