「みんな」と道徳

道徳教室 いい人じゃなきゃダメですか

 

 こちらはあとがきの部分です。

 改めてこう言われると、「みんな」って深いなと・・・

 

P324

 道徳とは何か?

 あれこれと考えてみましたが、その元となるのはやはり「みんな」ではないかと思います。

「みんな」という日本語。集合名詞のようで物事を斉一化する副詞としても使われる不思議な言葉。誰のことかと考えると、誰のことでもなく、雲のようにつかみどころがありませんが、私たちは「みんな」に導かれています。「みんなに従う」というと単なる従属意識のようですが、実は「みんな」は自分の中におり、その「みんな」が周囲の人々に合わせるとなると主体的ともいえます。周囲の人々の中にもそれぞれ「みんな」がいるわけで、「みんな」と「みんな」を折り合わせることで私たちは生きているのです。「みんな」は構造的に説明すると、西洋哲学でいう「間主観」や仏教の「帝網(帝釈宮に張り巡らされた網のこと。結び目についた無数の珠が鏡のようにお互いを映し合っている)」に似ており、おそらく昔からみんなそうだったのでしょう。

 この「みんな」が世を動かしていると考えて、私は20年前に『からくり民主主義』を執筆しましたが、その後、インターネットやSNSなどが浸透することで、「みんな」の様子が変わってきたように思えます。多くの人々の意見やコメントが実体化することで多様性が現れるかと期待したのですが、むしろ「みんな」が凝固しているように見える。お互いに映し合って不定形だったはずの「みんな」がそれぞれに固まって映すことを止めている。自分を正当化するための「みんな」は道徳になり、しまいには正義となって敵に襲いかかります。このままではお互いに問答無用の不毛な争いになってしまうので、道徳の原点である「みんな」に立ち返ってみたらどうかと私は思います。闘うための「みんな」ではなく、和合するための「みんな」。そもそも「みんな」は論理的な用語ではなく、どちらかというと「気持ち」です。「公平にせっするためには、どんな気持ちをもてばよいでしょう」(P19)の答えも「『みんな』という気持ち」ではないでしょうか。