井上老師と横尾さんのやりとりも興味深かったです。
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「それじゃ、なんなりと……」
と井上義衍老師は優しい目でぼくを見られた。井上老師とお会いするのは六ヵ月振りだ。・・・
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「人間に悩みや苦しみがあるのは、自分の作りあげた見解で物事を見ているからなんでしょうか?」
「見解でこしらえたから苦しんでるんじゃ。もともとないものをあるように思うから苦しみはじめたんでしょう」
老師は自分の身体を指して、これ自体に対する疑問があり、自分自身で自分自身をよう信じてやらんのだろうといい、さらにこの自己というものは疑おうと、信じようと関係なくちゃんとこうして存在しており、他に問題はないではないか、といった。
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「このようなことは坐禅を続ける過程で自然にわかってくるものなんでしょうか?」
「自然にわかってくるというんじゃない。今のように何も知らんでも、ほら眼だってごらんなさい、自分が見ようと思わんかっていろんなものが入ってくるでしょう。あなた自身、自分が生まれたこと知らんのです。そして知らないものが知らぬ間に発生して、知らずに生きておれる。ごらんなさい、基本的にちゃんとしてるでしょう。全く問題ないんです。それに立ち返ればいいんです。そういう自分を本当に徹見すればいいんです」
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「そうすると老師の言葉をそういうふうによく理解できれば、そういうふうにできるものでしょうか?それとも坐禅を続ける中で出てくるものでしょうか?」
「出てくるんじゃなくてね、いつでもそうなんですわ。始めっから」
人間は本来誰でも悟っているという意味なのだろうか。しかしなぜこんな単純なことが僕には理解できないのだろう。
「坐禅をすると大悟するのですか?それとも老師の言葉がぼくの中でよく理解できれば、その瞬間から大悟ってことになるんでしょうか?」
「理解じゃあなくてね、事実なんです」
「事実?その事実をですね、理解っていうんじゃなくて、何といえばいいんでしょう……?」
「事実を理解することは体験ちゅうことでしょう。つまり体験することなんです」
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「狂ったままの考えで修行すると、それの要求通りのことが出てくるから、結局狂ってくるわけですわ。しかし、逆に受け身になるとね、すべてがこれ(自分の体を指して)の上に現れてくる、そうするとそれはもはや必然でしょう。その必然性にまかせてそのままいっていると、本当にそうだ!ということが自分でうなずけるようになってくるのです」
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意識しようがしまいが確かに五感は働いている。これがありのままの自分なのであろう。それにもかかわらず、わざわざ見ようとする、また聞こうとする、考えようとする―ここに人間の見解が介在するのだろう。いやなことを見たり聞いたりすると、すぐさまそこに人間の見解が起きる。・・・
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「例えば誰かがここに来てぼくの頭をいきなりコツン!とたたくとしますね、そうするとぼくは『何をするんだ!』といって反応しますね……」
「それは自分を認めとるから反応するんですよ」
「そうですね」
「それが証拠に雨が頭に降ったからとて怒りゃせんでしょ。柱にぶつかったからって、柱に文句はいわないでしょうが」
「人によって怒りたくなる人間と、場合によっては好きな人に殴られると喜んだりして……」
「その通りです。好きな人間にたたかれば嬉しくてしようがないですわ。たたかれた痛さは同じであってもね……。ごらんなさい、事実は、喜びでもなけりゃ、恨みでもない。それですよ」
ぼくは内心、これだ!と思った。
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「私っていうのをなくすることですか?」
「自我感は思い込みなんじゃから。幼児の頃には自我感はないでしょう。知らんものが知らんまにこの世に出てきて……」
「流れにまかせるっていうことと同じですか?」
「流れにまかすんじゃなくってね、まかすもまかされるもない……」
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「仏道の教えというのはなにも釈尊の教えじゃないんです。誰にでも同じように存在しているものを、自分は持っていないと思って迷ってそれを外に求めているのを見て、釈尊は人のものを学ぶんじゃなく、自分のものを自分が本当に学んで知ってゆくということを示して、これを仏道と名付けられたのですわ。確実に自分で根底に達しますとね、こんどは疑おうとしても疑うことができなくなるんです」
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「実際にはこれ(自分を指して)はもともと損も得もないでしょう。損をしても得をしてもどれに対しても無条件でこれは活動するようになっとる。そう考えると生だの死だのっていう問題もなんでもなくなるでしょう」
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ではぼくの中とはいったい何なのだろう?もともと生まれた時にはぼくは自分の誕生を損だとか、得だとか考えただろうか?このような観念は存在しなかったはずだ。
自我の問題と同時にぼくは人間の運命について老師に尋ねてみたいと思った。・・・
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「運命なんてものはありませんよ。仏法は運命論じゃなくて因果論です。釈尊は人間の考え方からすっかり離れて、生まれた時点まで遡られ、そこで悟られたことは、因果の実体らしいものは何ひとつないじゃないかということだったんです。作るものも作られるものもない。それが因果です。因果というのに種がない。因と思われているものも結局は因果関係によってできたんですからね。縁も結果も主体らしきものはないんです。縁にふれてただぶつかってすべてのことが次々に回転する。そのようにできておるんです」
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「必然なんですわ。因果それ自体はどっちへころんだって、それ自体はどうっていうことない。人間がそれをどこかで人間の見解を起こしていろいろ考えるから問題が起きてくるんでしょう。しかし、このことを知ってしまうと何がどうあっても、ああそうかということですよ……」
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井上老師にいろんなことを質問してみるのだが、常に返ってくる言葉は一つなのである。それはこの宇宙に存在するすべてのものは、人間の迷悟にかかわらず本来それ自体が満足な存在者であり、全宇宙とこの自分とが不離一体の状態であり、しかも何の不足もない存在であるというのである。そしてこのような宇宙と一体の自己に徹すれば、外に何も求める必要はないのだ。