この辺りも印象に残りました。
P100
「悪」に対して空海は毅然と「ここを立ち去れ!ここは私たちの場所である」と宣言する。しかしこの文章の冒頭では、絶対的な平等感もまた告げる。
夫れ有形有識は必ず仏性を具す。仏性法性法界に遍じて不二なり。自身他身一如と与んじて平等なり 弘法大師空海『続遍照発揮性霊集補闕鈔』巻第九
現代語訳
そもそも形あり識あるものは必ず仏性を持っている。衆生の中にある仏性も、非衆生の中にある法性も、宇宙にあまねく存在して不二一体である。自分も他者も平等でひとつである。
弘法大師は、命あるものだけでなく、命なきものでさえも、仏の命を持ち一体であるとする。それは僕たちの密教の根本にある思想だ。
自分は、悪人どころでなく、あらゆるすべてと同じ命を共有している。
しかし、この場にいる悪しき者は去れ。
なかなか解釈の難しい言葉だ。しかし「そういうことってあるな」と自然に思う。あらゆる存在が尊い命を持つとしても、僕たちには「悪しき者」と決別するべき現実的タイミングがある。
とりあえずぼやーっと観ながら、時々、しゃきっと姿勢と態度を引き締めてみたい。
大菩提は一切分別無分別の性なるを以ての故なり 『理趣経』第二段より
現代語訳
大いなるさとりは、あらゆる虚妄(いつわり)の思慮を超えたところの無思慮の性質をもったものだからである
仏教の教えに触れていると「論理的に考えること」の大切さを説くと同時に、時に分析的な言葉や概念をぽーんと超える方向性を感じることがあります。僕たちの生活の中でも、意味を超えて「ぼやーっと聴く」「ふわーっと聴く」という姿勢は、「考えること」と同じぐらい大切だと思うのです。
僕が教えを受けている師は、引用箇所にはありませんが、この『理趣経』第二段に出てくる「平等」という、密教にとってとても重要な言葉で教えを授けてくださいました。<仏典に説く「平等」は、才能を画一化してしまうようなことではなく、それぞれのかけがえのない持ち味を見つけ出し、それを徹底的にいかして発揮させることだ>ということなのです。
P119
・・・今回は住職就任以来、はじめての新しいてぬぐいと納経帳・・・も入れることのできるトートバッグも制作した。
・・・
バッグに印刷するために選んだのは、こんな言葉だ。
我我の幻炎を覚って、頓に如如の実相に入らしめん 弘法大師空海『遍照発揮性霊集』巻第七
現代語訳
自らの身を陽炎のようにはかないものと覚って、すみやかにあるがままの絶対平等の悟りの世界に入らしめたまえ
仏の教えが、常に疑いの目を向ける「私、我」という存在。僕は、「仏性」(仏としての本性)や弘法大師が「無我の中の大我」と呼んだものを、「あらゆる生命や存在が共通して持っているもの」とイメージすることがある。つまり生命の固有の我がない部分である。
そしてそこにコミット(関係)しようとすることが、自分の「修行」だと思っていて、その時、自分は自然の一部なのだと思い出すように感じる。・・・
P123
世間一切の垢は清浄なるが故に、すなわち一切の罪は清浄なり。世間一切の法は清浄なるが故に、すなわち一切の有情は清浄なり 『理趣経』第四段より
現代語訳
世間のあらゆる痴さという垢は本質的には清浄であるから、あらゆる罪障もまた清浄である。世間一般のあらゆる存在するものは本質的に清浄であるから、生きとし生けるものすべてもまた清浄である
僕たちが、まっさきに「避けるべきもの」だと感じやすい垢という汚れ、積み重なっている罪を取り上げて「これも清浄なものである」と表現しているところに、密教の特徴が強く出ています。この第四段では、仏教が根本的に避けてきたあらゆる怒りや欲にまかせた貪りの心さえも「清らか」であるとされます。
これを僕は、この世界に対する徹底的な肯定の表現であり、すべての存在が分け隔てなく共通の命―仏性を持っているからだと感じています。
師は「人々は表面的にものを見て汚いと判断するが、それは我にとらわれている時の見方であって、一切のものは本来、自他の対立を超えている」と理趣経のこの段を説いてくださいました。
密教では、欲や無知というのは、生活の中で後天的に身についたものであり、根をたどれば自他の区別のない清浄さがあるとされます。哲学や自然科学の分野でも、存在や命の「私性のなさ」が語られることがありますが、そのたびに僕はこの密教の思想を想起します。
P227
「私」と「私たち」が分かれている認識は、生活を送るうえで必要だ(そうでないと他人の便所に無断で入りかねない)。しかし、同時にこの I と WE が融け合って、結びついて瑜伽している現実にもそっと目を向け、感じる。もともとふたつではないことを見る。
その場所にあるのも仏教の修行だろう。
そしてそれは、ありふれたこの日常の中でも見つめることのできる世界であると思う。
燈光一にあらざれども
冥然として同体なり
色心無量にして
実相無辺なり
心王心数
主伴無尽なり
互相に渉入して
現代語訳
ともしびの光は無数であるけれども、
その光は融け合ってしまい、区別することができない
ものと心ははかり知れず、その真実のすがたもはてしがない
総合的な心のはたらきと個別的な心のはたらきは、
互いに、主となったり従となって尽きることがなく、
相互に入り合い、
帝釈天の宮殿を飾っている網の一つ一つの結び目につけられた珠玉に反映する燈火の如くである
私と私たち、この世界、草木。各々が孤立してあるのではなく、瑜伽としてあることを僕は見つめよう。そのうえで草木もあなたも全部ある。