養老孟司の人生論

養老孟司の人生論 (PHP文庫)

 「自我という概念は成り立たない」・・・やっぱりそうですよねと思いつつ読みました。

 

P52

 西欧近代的自我とはなにか。つまり個人があって、その個人とは本質的に変わらないこの私だ、というわけです。でも、そんなものはない。私はそう思ったわけです。だって、物質的に考えたって、去年の自分と今年の自分では、からだを作っている物質は、ほとんど入れ替わってるんですからね。現代人は「客観的な」人たちなんでしょ。客観的ということは、科学的ということで、それなら自分がどんどん変わるということは、物質的には認めなけりゃいけません。それなら「同じ私」なんて、ない。

「でも自分というものがあって、それは本質的には変わらないでしょ、自分の性格とか、考え方とか」。そうはいきません。それも変わります。どのくらい変わるかって、生まれたときは、たぶんなにも考えてないし、死んだらなにも考えないでしょう。ゼロと「ある」とでは、えらい違いじゃないですか。

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 ほかの本にも書きましたけれど、じつは心に個性はありません。そう認めるしかないんです。心に個性があってもいいんだけれど、それは他人には無関係です。私だけにわかって、他人にはわからないこと、それは他人にとって意味がありません。私だけの感情、これも無意味です。なぜなら、定義により、他人はそれを理解しないからです。

 個性があるのは、身体なんですよ。脳も身体のうちですから、脳の個性はむろんあります。古舘伊知郎さんの脳は、脳梁が人並みはずれて大きいんです。たぶんそれがあって、あれだけ言葉が上手なんです。それは古舘さんの個性といっていいんです。でも、だからって、古舘さんは他人にわからないことをいうわけじゃないですよね。他人と違うところで、突然怒ったり、笑ったりしませんよね。

 これ以上の説明はしません。私としては何度もしたからです。でも重要なことは、西欧近代的自我がこの社会に入ってきた明治以来、ある常識ができたということです。それが「個人主義」です。それから生じた考え方が、個人にのみ帰属する独特の思想がある、という前提です。だからノーベル賞なんでしょ。優れた科学的業績があげられるのは、その人にそれだけの才能があるからだ、と。

 よく考えてみると、それは違うでしょ。ノーベル賞クラスの仕事でも、他人が理解しなければ、評価のしようがありません。他人が理解できるということは、その他人も「同じことを考えている」ということじゃないですか。「でも、その人は自分では思いつかなかったでしょうが」。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。みんなが理解できるということは、だれかが思いつく可能性が高いということですからね。

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 つまりどんなに独創的といわれる仕事でも、他人が理解しなかったら意味がないんです。ところが、他人が理解するということは、「同じことを考えてる」ということですからね。

 

P63

 私は東大医学部に二十八年勤めて、定年の三年前に辞めました。しみじみ楽になりましたね。べつに大学で大して働いたわけじゃないのに、なぜそんなに楽になったのか。

 よく書くんですが、三月三十一日に正式に退職して、翌四月一日に外に出た。そうしたら、世界が明るいんです。家の外が本当に明るく見えたんですよ。ビックリしましたね。世界って、こんなに明るかったんだ。そう思いましたもの。それでテレビ局に行って、そこに居合わせたみなさんにそう言ったら、「あたりまえじゃないか」といわれました。たまたま勤めを辞めた経歴のある人が、その場に何人かいたんですよ。だからそういう体験が私だけじゃないことがわかりました。

 こればかりは、辞めてみなけりゃ、わかりません。つまり辞める前と、辞めたあとでは、私は「人が変わった」んです。

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 ・・・これを書いているいまでは、十年も前のことになります。そのくらい前になると、もはや前世という感じです。いくらか覚えていることは、自分が一生懸命になっていた、いくつかのことです。それだって、なんであんなことに一生懸命だったんだろうと、自分で不思議に思ってますよ。・・・

 そういうことがあって、人は変わると、本気で思うようになりました。・・・

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 ・・・おかげさまで、ずいぶん幸せになりました。ということは、それまで我慢してたってことです。

 じゃあ自分で「我慢してる」と思っていたかというと、かならずしも思ってませんでした。どう思っていたかというなら、「それで当然」と思ってましたから。勤めに通って当然、仕事で面倒なことが起こらないように気を配って当然、人事に関わりたくないんだけど関わって当然、他人の面倒をみて当然、などなど。この「当然」が、辞めたとたんに全部なくなっちゃいました。世界が明るくなるわけですわ。そういう厄介ごとを、考えないでいいんですから。

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 つまり、やりたくないことを、無理してやってたんでしょうね。結局は勤めているうちに、自分が変わり、考え方が変わってきた。でも本当に辞めるまでは、自分が「変わった」ってことに気づかなかった。「私は私、同じ私」、そう思うのが当然とまだ信じてたんでしょうね。

 

P190

 ・・・西欧近代の自我を認めるかぎり、「私は私、個性を持った同じ私」ですからね。「同じ私」だってことは「変わらない私」ってことでしょうが。そんなものが存在するなら、論理的に死ねませんわ。だって、「変わらないもの」が、なぜ「死んで、なくなる」んですか。「死んで、なくなる」のなら、「変わる」ことになっちゃう。

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 諸行無常を自分に応用するなら、無我になります。「変わらない私」なんてない。そういうことでしょ。「変わる」私なら、どの私が私なんだという疑問が起こります。私は毎日変わる。そんなもの、定義するのが面倒くさいから、「無我」なんですよ。

 無我という概念が日本の世間に入ると、「己を虚しうして人に尽くす」といった意味にとられてしまいがちです。もともとはそうじゃないでしょう。自我という概念は成り立たない、といっているのです。・・・

 

P76

 じつは私は、ものごとの理解が遅いんです。こんな本を書いたりしているから、早いと思う人もいるでしょうが、いまでも他人のいったことを、一年間考えたりするんです。だから、ただいま現在のことを、あれこれ議論するような会議は、徹底的に苦手です。その場の議論についていけないんです。だから会議では意見をいわなくなる。・・・

 答えは自分なりにはわかっていることもあるんですよ。でもそれが言葉にならない。そのときは、まだ他人に上手に伝えられないんです。ある問題について、その周囲をできれば全部、考えようとする。私にはそういう癖があるんです。それからなにかいう。だから本がたくさん書けるんだと思います。本には、これまで考えてきたことを、ゆっくり書くんですから、それが可能です。

 でも対象がいま生じていることだと、それに対して適切に返事ができないんです。いまの状況をかいつまんで、端的に反応し、表現する。それができません。・・・

 ・・・みんなのいうことを聞いて、自分なりの意見を作る。それにやたらと時間がかかるんですよ、私は。