ボクシング日和

ボクシング日和 (ハルキ文庫)

 角田光代さんの、ボクシング観戦記。

「両手を広げて『ヘイ、カモン!』ポーズで挑発する。ああ、出た、ヘイ、カモン!私は今や、このポーズをした選手はたいていの場合負けてしまう、を自説にしている。このポーズをして結果的に勝った人を見たことがないのである」

 など、おもしろかったです。

 

P60

 12月の最後の3日間、毎年私は掃除に明け暮れている。井上尚弥選手の試合が(2014年)12月30日だと聞いても、見にいこうとは思わなかった。だって掃除があるし。年の瀬だし。

 でもだんだん、だんだん、だんだん見たくなってくる。テレビ放映はされるけれど、生で見ないといけないような気がしてくる。掃除なんかしている場合ではないように思えてくる。そうして試合の2週間ほど前に、エイヤッとチケットを買った。

 ・・・

 いよいよメインイベント、井上尚弥選手の登場である。・・・対戦相手のオマール・ナルバエスという選手はスーパーフライ級王座を11度も防衛しているチャンピオン。最初に世界チャンピオンになった2002年からずっとチャンピオン。こんなすごい人と戦うのか!

 試合開始のゴングが鳴る。

 はじまってほんの数十秒。ナルバエスがすとんとキャンバスに腰をつく。えっ、何が起きたの?と思う間もなく。試合再開直後、井上がすぐさま襲いかかる。容赦なくパンチを連続させて、またしてもナルバエスがダウンする。おお!というより、ええっ?と声が出てしまう。それでもナルバエスは立つ。けれどももう、戦意喪失しているのが見てわかる。・・・

 なんなんだ、これ。見ていながら、何が起きているのかまったくわからない。

 第2ラウンド開始のゴングが鳴る。井上は様子を見るなんてことをせず、突っ込んでいく。ナルバエスもインターバルでなんとか持ちなおしたのか、パンチを出す。ようやく試合らしくなるのかと思ったその瞬間、ナルバエスがまたしてもダウン。それでも立つ。立ったナルバエスに猛然と井上は向かっていき、ボディを打ちこむ。そのまま沈むナルバエスを見て、思わず立ち上がってしまう。これで終わりだ、もう立てないだろう。客席の多くの人もそう感じたのだろう、ほぼ全員が立っている。ナルバエスはやはり立てない。試合終了のゴングが鳴り響き、歓声が上がる。

 私も立ち上がって思わず叫んでしまったけれど、でも実際のところ、今目にしたものがなんだったのか、まるでわからなかった。この原稿を書くためにノートを広げていたのだけれど、「い」と一言書いてあるきりで、メモするひまなく終ってしまった。しかもパンチが速すぎて、なんのパンチでナルバエスがダウンし、なんのパンチで仕留められたのか、ぜんぜんわからなかった。スクリーンにスローモーションが流れてようやく理解するのがせいぜいだ。

 なんなんだ。なんなんだ今のはいったい。何もわからないながら、なんだかすごいものを見た、ということだけわかる。いや、本当にすごいものを見た。大掃除なんてしなくてよかった。こんなすごいものを、生で見ることができてよかった!会場を出て、帰りの電車でも興奮がおさまらない。

 そういえば、井上選手がはじめて世界チャンピオンになったとき、老いて自慢しようと私は決めたのだった。若い人たちに、私は井上の世界戦を生で見たのだと得意満面で話そうと。なんてことだ、今日のことも大いに自慢できてしまうではないか。

 

P76

 内藤律樹選手の試合は、2013年のV.S.泉圭依知選手の試合から見ている。一試合ごとに、どんどん強くなっていく印象があって、試合があるなら見たいと思う選手のひとりである。

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 はじまってすぐ、内藤の調子がなんだかすごくいいみたいだと思う。荒川もぜんぜん負けてはいないが、でも内藤は以前試合を見たときよりも迫力がある。私は赤コーナー側に座っていたので、ラウンド終了後、コーナーポストに戻る内藤の顔が見える。第3ラウンド終了後、戻ってくる内藤が笑っている。自分でも笑っているのに気づいていないような、たのしくてしかたないときに無意識に出てしまうような笑い顔だ。ああ、ほんとうに調子がいいのだなとその顔を見て思う。

 第5ラウンド、みごとなアッパーを決め、ワンツーとつなげた内藤が完全に優勢になった。ところが第6ラウンドで荒川は攻めて攻めて攻めこんでくる。あ!この人、倒れない人だ!と去年見た試合を思い出す。荒川の、V.S.近藤明広戦。あのときの壮絶な殴り合いが浮かぶ。荒川選手は、倒れなかったし、殴り合えば殴り合うほど内側から力がみなぎってくるようだった。

 第8ラウンドで荒川が内藤を追いこんでラッシュに持っていった。第7、第8は荒川が優勢に見えたが、第9ラウンド、今度は内藤が勢いを盛り返す。ここからがもうすごかった。クリンチをすることもなく両者ともパンチを出し続ける。ホールがものすごい騒ぎである。両者の名を呼び、叫び、腕を振り上げ、足踏みまで聞こえてくる。ぜったい負けない、引かない、という気持ちが、人間の体を借りて取っ組み合っているかのようだ。すごいすごいすごい。増していく両選手の気合いにつられて、ホールを破壊するような勢いで会場も盛り上がる。

 ずいぶんと後楽園ホールには通ったけれど、観客全員がこんなに夢中になって、前のめりになって、足踏みまでしているのを見たことがない。こんな興奮に包まれたホールを見たことがない。

 試合終了を告げるゴングが鳴り響くまで、どちらも力を塵ほども抜くことなく戦い続けた。歓声、歓声、また歓声。内藤選手の判定勝ちが告げられる。

 この日はすごかった。全試合がそれぞれ異なるふうに盛り上がり、観客を惹きつけた。・・・