こんなに魅力的な方だったのだなと、様々なエピソードを読みながら改めて思いました。
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細長い楽屋の一番奥に勘九郎は座っていた。日本から持ち込まれた鏡台の前で化粧を落としている最中だった。・・・
「勘九郎さん、ニューヨークのアクターズ・スタジオの先生ですよ。NHKで放送されているあの番組の!」
振り返った勘九郎は、タオルで顔を拭いながらすっくと立ち上がる。
「あれあれ、はいはい、観てますよ。あの番組、よく観ています!」
歩み寄った勘九郎に〝彼〟は両手を差し出し、しっかりとその右手を握っている。そしてあの低音で自己紹介を始めたのだ。
「ジェームズ・リプトンといいます。演劇学校の副学長をしています。どうしても言いたいことがあってここを訪ねました」
通訳の女性の言葉に勘九郎が頷いている。
「私は長い間この世界で過ごしてきましたし、数えきれないほどの芝居を観てきましたが、今日の『夏祭浪花鑑』には、これまで感じたことのない衝撃を受けています。これほどまでに深く人間を描いた舞台に出会えるとは……。こんな芝居をニューヨークで演じてくれて本当にありがとう」
ジェームズ・リプトンは、大きく息をついた。そして、力強い口調で言った。
「今日の芝居は、私がこれまで観た中でも最高のものだ」
・・・
ハリウッドの名監督やスーパースターたちに忌憚のない、また愛情溢れる質問をするリプトンは、アメリカ・エンターテインメント界の生き字引のような人だ。インタビューの前にはその対象者が制作した、または出演した作品を何週間もかけて一本残らず鑑賞し、感想と独自の分析をノートするのだという。そんな彼が勘九郎の「夏祭浪花鑑」を「ベストワン」と言いきった。芝居が跳ねた直後であるという興奮を差し引いても、これほどの賛美があるだろうか。
「今日は芝居を観てくださって本当にありがとうございます」
沓脱までリプトンを見送った勘九郎は、もう一度深々と頭を下げると風呂場へと駆けていった。
・・・
「あんまり嬉しいと、腹にどっしり重石が置かれたみたいになって、意外と飛び跳ねたり叫んだりできないもんだね」
呟くように言った勘九郎の声は、ほんの少し震えていた。
着替えを済ませた勘九郎と、芝居小屋の脇で待っていたハイヤーに乗り込んだのは午後十一時少し前だった。向かった先は五番街にあるベトナム料理の老舗レストラン。・・・
・・・
レストランが近づいてきた。私は待っている彼の友人たちに、この出来事をどう伝えようかと考えていた。すると、彼がそれを察したように私に告げた。
「レストランで待っているのは女房を除いて全員、役者なの。だからさ、リプトン先生にこんなに褒めてもらっちゃったこと、黙っておこうかな。もしさ、僕が友達からこんな話聞かされたら、絶対に嫉妬しちゃうもんね。みんなはそんなに心が狭くないけど、喜びすぎて罰が当たっちゃうといけないからね」
照れたように笑った勘九郎は、勢いよくレストランのドアを開け、仲間の待っているテーブル目掛け、大股で歩き出す。
・・・
二十日の昼の部を観終わって楽屋へ駆けつけた私は、その日のニューヨーク・タイムズの劇評を役者たちと並んで読むことになった。・・・
劇評を書いたのはベン・ブランドリーという演劇評論家だった。辛口で知られる彼が平成中村座の芝居を観て批評を書くと聞かされたアメリカ人のスタッフは、その瞬間から緊張を強いられていたという。ブランドリーに遠慮なく扱き下ろされる作品が少なくないからだ。・・・
しかし、そうした緊張はすべて杞憂に終わる。勘九郎の「夏祭浪花鑑」は、手放しで絶賛されたのだ。
・・・
この批評を必死になって読んでいる私のすぐ後ろで、通訳を担当する青年が勘九郎に説明を続けていた。
「このブランドリーという人は、ニューヨーク・タイムズでもブロードウェイ担当のナンバーワンの劇評家なんですよ。通常、アジアの芝居は、アジア文化を専門に書いている人が担当する。ブロードウェイ担当の人がそれ以外の芝居、つまり歌舞伎についてこれだけ大きな記事を書くことは本当に珍しいんですよ。さっきまでサウンド担当やライティング担当のユニオン・スタッフと話してきたんですけど、みんな『僕が担当したショーで、こんなに大きな記事が載ったのは初めてだ』と驚いているんですよ。『うちのお母さんが喜んじゃって、この新聞を十部も買ってきた。知り合いに配っているんだ』と、はしゃいでいました」
唇を強く結び、目を細めて聞いている勘九郎は、歓喜に身をよじることも奇声を上げて騒ぎ立てることもない。
しかし、秘めた感激は勘九郎の全身に拡散している。・・・
・・・
ノートとICレコーダーの準備をする私に、「こんな場所でインタビューしてもらえるなんて思ってもいなかったねぇ」と勘九郎が笑った。
「今ね、このニューヨーク公演がダメになった日のことを思い出した」と勘九郎が言うと、鏡に向かっていた中村橋之助と中村扇雀が思わず振り返った。
「ねえ扇雀さん、ほとんど決定した直後、いったんダメになったんだよね、このニューヨーク公演。平成十五(二〇〇三)年に大阪でやった中村座の楽日に、一番大きなスポンサーが手を引いちゃったの。お金を出すところがね、出さなくなっちゃったわけ。それでね、もうすべてストップだ。そこからスタートラインに戻って、一から出直しだよ。またやり直してここまで漕ぎつけた。だからさ、ニューヨークの楽の日には、役者もスタッフも感無量だ。泣くやつだっていると思うよ」
・・・
―中日を過ぎて最高の劇評が出てほっとなさっているでしょうけど、公演初日を迎えるまでにはいろいろな苦労があったそうですね。
今は笑っていられるけどね、最初はひどい状態だった。稽古はトラブルだらけでさ。まず、クーラーの音が異常にうるさかった。あれじゃ、一番奥のお客さんには台詞が届かない。日本にいるときから「クーラーの音だけは気をつけてよ」と言っていたのに、心配どおりになっちゃった。それにも増して深刻だったのが、アメリカのスタッフが動けないこと。でも、日本人に代えるわけにもいかないんだよ。アメリカでは芸能世界のユニオンが強固で、彼らに仕事を割り当てなければ公演ができないんだから。
―歌舞伎の裏方の経験がないアメリカ人には難しかったでしょうね。
歌舞伎で使う道具の使い方や、舞台の交換を一から教えなければならなかったね。それを通訳付きでやるからまったく進まない。やっと要領が分かってきたなと思ったら、今度は「一時間の休憩だ」と言って、みんな出ていってしまう。それがユニオンの決まりなんだよ。クーラーの音はいつまでも小さくならないし、休み時間で稽古はできないし、俺はキレたね。このままじゃ幕なんか開けられないと思ったよ。
―そうしたら熱が出た。
翌朝起きたら、高熱が出て、お腹も痛い。でも、稽古が遅れに遅れていたからそのまま小屋に向かったんだよ。昼休みにどうにも我慢できなくなって、病院に行って点滴を打って、急いで帰ろうと思ったらイエローキャブが一台もいない。
―風邪を引いたんですか。
たぶん食当たり。熱でふらふらだったけど、初日前夜にはメディアを招いての通し稽古があったから、とにかく戻ってまた舞台に上がったんだ。だけど、やっぱり裏方は動けないまま。リズムが大事な芝居なのに、きびきびとした動きがまったく見られないんだ。それでさ、僕がみんなに「夏祭」を、ニューヨークの若いストリートギャングたちの夏の夜の出来事に置き換えて解説したんだね。そうしたら、ようやく動きにリズムが出てきたの。幕が開いてからは、アメリカ人の黒子も毎日どんどんよくなってきていますよ。
・・・
―問題のクーラーの音は聞こえませんでしたね。
クーラーにカバーを被せた。初日にぎりぎり間に合った。でもね、クーラーの音以外にもうひとつ問題があったんだよ。
―それは?
アメリカ人のお客さんのためのイヤホンガイドの英語が、あまりに単調でそっけないものだったの。事務的に説明をしてるだけだったんだよ。初日前の通し稽古でメディアの人やお客さんも入れたんだけど、イヤホンガイドで聞いているお客さんが盛り上がらないし、クスリとも笑わない。通訳に「なんでみんな喜んでないんだ?僕はニューヨークのみんなを笑わせたり怖がらせるために来たんだよ」って言ったんだけど、そこで「あの英語じゃ笑えない」ということが分かった。
それで、リンダさんという歌舞伎にも詳しい通訳が、「このままじゃ、お芝居の熱は伝わらない」と言って、徹夜して、スラングを入れたりユーモアを込めたり、イヤホンガイドのナレーションをすべて書き直してくれたんですよ。だいぶよくなって、お客さんも笑ってくれるようになった。でも、日本語に比べたら、まだまだ表現が控えめらしいけどね。
・・・
勘九郎がニューヨーク行きを決意した平成十五(二〇〇三)年、彼は松竹の会長である永山武臣を日本料理の名店・吉兆に招き、その承諾を得ようとニューヨーク公演への思いを語った。
「平成中村座をニューヨークへ持っていきます」
・・・
しかし、永山は勘九郎の思いを一刀両断にした。
「やめておきなさい。中村座をニューヨークでやったって、うまくいくわけがないよ」
勘三郎亡き後、勘九郎には息子のような愛情を注いでいる永山が、諸般の危険を考え、そう助言するのは当然のことのように思われた。だが、勘九郎の意志も固い。勘三郎襲名を前に、五代目勘九郎の集大成となる仕事を残したい。新たな挑戦に力を尽くしたい。そう考えて出した結論が、ニューヨーク行きだったのである。
・・・
「僕はどうしてもやりたいんです」
勘九郎の目は大きく見開かれている。勘九郎の心には、ニューヨークへは行かない、という選択肢はすでになかった。
「何度も言うけど、君、やめたほうがいいよ」
「いや、やめません。やらせてください」
・・・
一歩も譲らない勘九郎に、永山はこう迫ったのだ。
「じゃあ、君、ニューヨークへ行って本当に失敗したらどうするんだ」
その刹那、勘九郎の口から飛び出した言葉はとんでもないものだった。
「そんときゃ、腹切って死にます」
それを聞いた永山は間髪をいれずに言った。
「もったいないから、それはよせ」
一気にその場が和み、双方から笑いがこぼれた。・・・
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事件からの数日間、勘九郎は特別な感情を抱くことになった。こんなにも人の励ましや親切に触れ、何度も「ありがとうございます」と言ったことが、これまでの人生にあっただろうか。
「襲名披露パーティーに来てくださった方たちに向けた『ありがとう』と、子供が不祥事を起こしたのちの激励の手紙や電話に向けて言う『ありがとう』とは、やっぱり全然違うんだ。どちらも、僕にとってはものすごく大切な『ありがとう』だった。こんなに短期間にね、ふたつの『ありがとう』を味わった人間は、僕たち家族ぐらいしかいないでしょう。それを生涯、忘れずに生きていかなくちゃいけないんだと思います」
勘九郎は、七之助がもたらしたこの機会に、むしろ感謝しようと思っていた。
まるでエスカレーターのごとく、時間が来ればたやすく勘三郎になれると思っていた自分は、もういない。慢心したのは七之助ではない、自分なのだ。七之助が犠牲になってそのことを我が身に気づかせてくれたのかもしれない。そうとさえ思えた。
勘九郎は七之助を呼び、こう告げた。
「お前は、俺の顔に泥を塗ったと記者会見で言ったけど、俺はお前の親なんだよ。泥なんて塗られたって自分で拭くよ。そんなこと気にするな。それよりも、お前が考えなければならないのは、一瞬でも、自分は普通とは違う、特別な人間なんだと考えたことがなかったか、ということだ」
勘九郎は、その言葉を自分自身にも向けていた。七之助は下を向かず、父の目を見ている。
「お父さんは、これまでもお前を信じてきたよ。でも、それで足りなかったのなら、もう一回だけお前を信じてやる。ただ、これだけは忘れるな。仏の顔も三度というが、俺の顔はたった一度だぞ」
・・・
七之助はまた深々と頭を下げた。七之助の試練は続くだろう。しかし、勘九郎は、この試練こそが七之助という歌舞伎役者を鍛え上げてくれるのだと信じていた。・・・
ところで、3日ほどブログをお休みします。
いつも見てくださってありがとうございます(*^^*)
