年齢も出身地も立場ややっていることも、考えや思いも、いろんな方が登場して、興味深かったです。
P15
二〇一一年に大地が大きく揺れた直後からこの地域は、食の問題で大きくぐらぐらと揺れ続けてきた。放射能汚染、農産物や海産物の出荷制限から始まり、風評被害、一次産業の衰退、そこにALPS(多核種除去設備)処理水の海洋放出の問題も加わった。もともと海の幸も山の幸も大変に豊かで、農業や酪農、漁業も盛んだった地域だ。
情報やニュース、科学的根拠、異なる意見や感情、痛みが錯綜するなかで、私には、わからないことがあった。
そこに暮らす人は、いま何を食べて、どう生きているのかということだ。
自炊なのか外食なのか。和食なのか洋食なのか。魚なのか肉なのか。どこで買い物して、どんなキッチンに立つのか。ひとりなのか。誰かと一緒なのか。何を楽しんで、何がイヤで、何を考え、何を忘れ、何を覚えているのか。いや、そもそものところ、今ここにはどんな人が暮らしているのだろうか?
とても野次馬的な発想かもしれない。かもしれない、じゃなくて間違いなくそうだ。
でも、そのことが頭から離れない。被災地だからとか、原発事故があった場所だからとか、そういう理由だけではなかった。ここには、暮らしがあり、ただそこに暮らす人たちがいる。その人たちと会っていろいろ話したかった。
トンネルを抜けた先の町で新しい家や食堂を見るたびに、私の恋する野次馬的魂は大きくなった。そして、しまいにはその感情は職業病と相まって脳内で奇妙な発展を遂げていった。それは、ロッコク沿いの町に暮らす人の文章を集め、一冊のエッセイ本を作るというアイディアである。みんなが、どんなふうに、何を食べているかを書いてもらう。好きな食堂のことや、思い出のレシピやキッチンの情景でもいい。
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一緒に本を作りませんかと呼びかけてみたら、誰か応じてくれるかなあ。
P33
日本語が全く話せない状態で来日した上に、当時ベジタリアンだったというのもあり、食べるものにとても困っていた。ホームシックになってしまうことも多く、何らかの方法で自分を落ち着かせたかった私は、なぜか人生で初めてチャイを作ろうと思った。
水をゆっくりと沸騰させ、茶葉を加えると、寮にスパイスの香りが広がる。あの時は分からなかったが、チャイが大好きな祖父のことを思い出させてくれた。(中略)一口のチャイで長い間祖父からもらってきた愛情をしみじみと感じた。 (エッセイ「チャイと愛」より)
彼女は遠い日本で故郷の味であるチャイと出合い直した。日本で暮らす間に、チャイは彼女の生活に欠かせないものになっていった。
短期留学を終えるとインドの大学を卒業。もっと日本語を勉強したいという思いが募り、奨学金を得て、大学院生として日本に戻った。選んだのは、仙台にある東北大学大学院の国際文化研究科で専攻は言語科学。意気込んで始めた新生活だったが……。
スワティカ:仙台の生活には、なかなか慣れませんでしたね。福岡とは町のスケールも違うし。そもそも福岡では女子大学だったから、みんなすぐに仲良くしてくれて、楽しかった。仙台に来たあと、コロナがはじまり、人と会う機会も少なくなってしまった。落ち込んで不眠症にかかってしまって、インドに帰ろうかなと考えているときもありました。
そこまで聞いて、東北にはなじめなかった、と言うのかと思うと、彼女はこう続けた。
スワティカ:でも、いまは東北、大好きです!私はもう自分を完全に東北の人として認識していて。福岡も……好きだけど、自分は東北の人なんです。
有緒:そんな変化が!そんなに劇的に変わった理由はなんですか。
スワティカ:私、やっぱり、人生で一番大事なのは人との出会いだと思うんですよ。
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落ち込んでいた頃に、公園でラジオ体操やっているおじいちゃんおばあちゃんたちに出会ったんです。
有緒:ラジオ体操?
スワティカ:そう、一緒にどうですかって声をかけられました。最初は知らない人と一緒に体操なんかやりたくなかったから、日本語がわからないふりをして、ノー、ノーって言ったんです。でも、公園に行くたびに声かけられて、もうこれは一度やるしかないって思って、体操してみたら、すごかった!なんて言うんでしょう。それから、毎日公園に行くようになりました。早起きして、体操して、みんなに挨拶して、みんなも挨拶してくれて、一日が始まる。それは落ち込んでいる時とは全く違うパターンでした。
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スワティカ:ラジオ体操が終わるとお茶の時間があるんですけど、みんながお菓子を持ってきていて、上品な食べ方しないと、〝スワちゃん、てそずらしいから〟って言われちゃう。〝てそずらしい〟は仙台の方言なんですけど、最初にお菓子を取ろうとすると言われます。すごく仲いいから、そんな気遣いはいらないんですけどね。
有緒:日本のおばあちゃんたちとそんなに仲良くなるってすごいですよね。
スワティカ:みんなにめっちゃ感謝してます。そういえば、来月みんなをインドに連れてくんですよ!
有緒:えー!
スワティカ:いつかインドに来てくださいって言ってたら、本当に実現しちゃった。私の友人の結婚式に出席したり、タージマハールに行ったり。私の実家にも来てもらうんです。体操のおばあちゃんたち、山登りのグループのおばあちゃんたち、仕事関係の人、合わせて一二人です。あははは。
こうしてスワティカさんは、多くの友人を得て、自分を東北の人だと認識するに至った。
有緒:そういえば、エッセイの終わりが「私はベジタリアンだったが、今ではすっかり浪江のシラスの美味しさに負けてしまっている(笑)」としめられているのも良かったです。
スワティカ:初めて浪江町の道の駅でシラスを食べたとき、すっごく美味しくて。しかも、食べ放題で、丼に好きなだけシラスをかけてくださいみたいなことが書いてあったので、いっぱい食べました。
有緒:そのときにベジタリアンをやめた?
スワティカ:いや、もっと前で、仙台に引っ越した後です。友達にちょっとだけ魚を食べてみたらと勧められて、マグロを食べてみたら、ほんとに美味しくて!もうその場で負けちゃった。もうベジタリアンやめますって言いました。
有緒:普段から結構自炊しますか?
スワティカ:納豆ご飯も自炊っていいますか?もしそれも自炊の定義に入ったらしています(笑)。
有緒:インド料理が恋しくなったりしない?
スワティカ:全くならないです。
いやいや、ちょっと待った。
いかに東北が好きだと言っても、ここは双葉郡である。・・・この地で起こったこと、いま現在進行形で起こっていることを考えると、仙台と同一線上で「好き」になることはできるのか。しかし、彼女はその見えない一線を軽やかに越えていった。
スワティカさんが双葉町に初めて足を踏み入れたのは、二〇二一年一月のことだった。大学の友人に声をかけられ、双葉町で行われたウォーキングツアーに参加した。
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スワティカ:ツアーの時に聞いた双葉の人たちのストーリーがすごく印象的でした。
有緒:ストーリーって、例えばどんな?
スワティカ:例えば、産業交流センターのフードコートに「ペンギン」というハンバーガーのお店があります。いまは山本敦子さんという方がやっているんだけど、もともとは、敦子さんのお母さんが双葉駅前でやっていたお店でした。震災前にお店はなくなってしまったんだけど、双葉町に人が出入りできるようになると、敦子さんが双葉町に最初に戻ってきて「ペンギン」を再開したんです。だから、敦子さんは双葉町の〝ファーストペンギン〟みたいだったと聞きました。
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やはり避難っていうのは、自分のアイデンティティから強制的に離れてしまうことだと思うんです。でも、多くの人が、土地を離れたあとも、なんらかの方法で自分のアイデンティティを大切にしてきた。それを知って、なんというか、感動しました。感動……って言うとちょっと軽い話に聞こえちゃうかもしれないんですが、すごく素敵だなって思います。
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いくつものストーリーを聞いた彼女は、ツアーを主催していた会社・双葉郡地域観光研究協会代表の山根辰洋さんに「通訳でもなんでもいいので、何か手伝わせてください」と伝えた。すると「じゃあ、インターンとしてどうですか」という答えが返ってきた。それからは、常磐線に揺られて双葉町にきて、ツアーを手伝うようになった。そして二〇二二年には東北大学大学院で修士号を取得、博士課程に進んだ。しかし、あるとき研究に行き詰まり、再び山根さんに今後のことを相談した。
スワティカ:じゃあ、うちの会社に就職したらどうって言われて、えっ!て。あの瞬間はずっと忘れられないです。いいんですかって言ったら、大歓迎ですよ、とおっしゃってくれて、去年の秋から正社員として働きはじめました。
有緒:じゃあ大学のほうは……?
スワティカ:休学中ですね!いや、こんなにニコニコしながら言ってもいいかわかんないですけど。
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社会人一年目となった彼女の仕事は、浜通り全体の観光を盛り上げるというもの。観光エキスポに参加したり、インバウンド向けのツアーやスタディツアーなどの企画をしている。
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スワティカ:最高に楽しいです。誰かに来てもらって、自分が愛してる地域を好きになってもらうなんて最高の仕事じゃないですか。私は、愛を共有できることがとても楽しいです。
