相手の話を理解しようとせずに、完全に聞く

僕たちはなぜ取材するのか

 「僕が興味を持つのは、普段見慣れているはずの光景をぜんぜん違う次元で見ていて、その見方が思考に広がりを与えてくれる人」、「言っていることではなく、言わんとするところを汲み取って」など、とても印象に残りました。

 

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尹 インタビューしたい相手は当然ながら、僕なりにおもしろいと思う人です。共通して言えるのは、記録した音声データを再生するように話す人ではなく、話しながらおもしろさを語る文法をなんとか組み立てようと模索している人ですね。ほかに参照するような事例がないことを、なんとか話そうとする。そういう熱量の高い話は、うかつに「このジャンルに当てはまるな」と分類することを許しません。

 たとえば、近年会ったなかでダントツにおもしろかったのが坂口恭平さん。建てない建築家であり歌手であり作家であり、何者であると説明がつけにくい。強いていえば平賀源内とか宮崎滔天みたいな人です。

 当初、彼はホームレスの作ったダンボールハウスの写真を撮ったりしているから、ホームレス研究をしている人だと思われていたんです。でも、彼はそういうことには興味がない。というのも、彼にとってホームレスは、「市民生活」からの落伍者ではなく、都市で狩猟採集生活をしている人だったからです。

 彼はそのことを「発見」した。会社と家を行き来する人にとっては、路上生活者は社会から逸脱した人にしか見えないわけです。でも、坂口さんが「都市型狩猟採集生活」というなぞらえ、つまり「見立て」を現実にグッと差し込んだ瞬間、普通の常識がグラグラし始める。現実を溶解させるような見立ての力の強い人に、僕は魅力を感じます。

 しかも、それが独善的だったり排他的ではなく、いろんな人たちが入れる広さを持っている。「これは俺のアイデアだから邪魔するな」ではなく、いろいろな人がアイデアを持ち寄ったり、それを利用して独自のものの見方を作っていける。抽象的な言い方になってしまいますが。

 独自性を持つと自分のテリトリーを守りたがる傾向があります。しかし、坂口さんはそれをせずに次々とバージョンアップして、脱皮していくようなドライブ感がある。彼の著作を読んでそう感じたので、インタビューをしたいと思いました。

 あとは独立研究者の森田真生さんですね。以前、「アエラ」(朝日新聞出版)の「現代の肖像」で取り上げた古武術家の甲野善紀さんから「おもしろい人がいる」と紹介されたんです。彼の話す数学は、「二は二ではなく、二に近い二がある」といった、僕らが学校で習ってきたものとまったく違っていて、しかも生き方の筋目を明らかにしてくれるようなものだった。

 いずれにしても、僕が興味を持つのは、普段見慣れているはずの光景をぜんぜん違う次元で見ていて、その見方が思考に広がりを与えてくれる人だと言えますね。

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 最近、気づいたのは、相手の話を理解しようとしてはダメで、それよりも「完全に」聞かないといけないのだということです。「完全に」というのが、じつはすごくむずかしい。一切のジャッジをせずに相手の話を聞くわけですから。これは単なる傾聴ではありません。

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 ・・・ここ近年は・・・鹿児島に「しょうぶ学園」という知的障害者の支援施設があって、そこに通ったり、しばらく住み込ませてもらったりしながら取材をしました。しょうぶ学園の利用者は、クラフトや絵画といったアート、音楽、衣服の分野ですばらしい作品を生み出していて、「アウトサイダー・アート」というような、域を超えた作品を発表しているんです。

 施設長の福森伸さん・・・は楽譜が読めないのに、利用者の奏でる楽器の出す音を指揮することができる。演奏する人たちも楽譜は読めないから、楽器を叩くことしかできない。だけど、全体としてはメロディになってしまうという不思議なことが起きている。

 福森さんからすれば、「叩くことしかできない」のではなく「叩くことができる」。叩くという原始的な行為に努力や向上は必要ない。だから、いつでも自分の全力が出せる。これは健常者にはむずかしいことだという発見があったわけです。なぜなら、健常者は「うまくやろう」としたり、人が見ていると評価が欲しくて緊張したりするからです。

 彼は、明らかに通常の福祉とは違う次元で健常や障害を捉えています。・・・

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藤井 よく雄大さんが、セッションのようなインタビューになったときに、すごくいいコミュニケーションができたというようなことを言っているけど、そこは具体的にはどういう感覚なんですか?

尹 餅つきみたいな感じです。・・・阿吽の呼吸っていうんですかね。ときどきですが、インタビューをしている最中にそういう感覚が訪れることはあります。

 ・・・そのためには相手の話すリズムを聞き取っておかないといけない。そういえば、坂口さんに「耳がいい」と言われたことがありますね。

藤井 「耳がいい」とは?

尹 何度かインタビューしたときに、僕がぜんぜん話を聞いていないように見えたそうなんです。ところが、まとめた文章を読んでみると、息遣いをちゃんと再現していて、話を完全に聞きとっていたことがわかったと。それを僕なりに言い換えると、坂口さんの言っていることではなく、言わんとするところを汲み取っていた。たぶん、彼の欲望にちゃんと触れることができていたんでしょう。

 僕は相手の話していることを音楽のように聴いているところがあって、だから文章にするときにはテキストを「楽譜」のように扱っているところがありますね。

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藤井 雄大さんの『やわらかな言葉と体のレッスン』(春秋社)について聞きたいことがあります。

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 『やわらかな~』のなかで雄大さんは、言葉の熱量や濃度を感じるということと、相手の言っていることが「わからない」のだとしたら理解しようとするより、「感じる」ことが「聞く」ということじゃないかということを何度も書いています。・・・

 ・・・僕らはまちがえないように正確さとか意味を求める傾向があるけれど、それよりもその相手が伝えようとしている本質的なことはズレていたりする。雄大さんが、使っている相手の言葉の「濃度」を感じるということを、あらためて説明してくれますか。

尹 意味に還元できない「なにか」ですね。・・・

 だから意味のある受け答えになっているとしたら、それは「こちらにとってわかりやすいストーリーになっているのではないか?」といつも警戒しています。

 ・・・容易にストーリーにならないところに、にじみ出てくる「なにか」を聞き取ることが、その人の哀歓や屈託、陰影を知ることになるのではないか。それが「濃度」だと思っています。

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藤井 糸井重里さんが・・・「今日のダーリン」というコラムが毎日更新されています。そのなかに、「人になにかを訊かれずに生きてきたら、ぼくは、いまよりも、ものを考えなかったと思う」という書き出しの回(二〇一六年八月一一日)があって、ふむふむとうなずいてしまった。

 その文章で・・・「そのことはとても大事なんだけど、言えるようなかたちで考えたことはなかったな」と思うようになるきっかけをくれる質問がきっかけになって、人は考えるようになって、自分の思いが整理されていくということを記されています。そして、糸井さんはこう続けます。

 

 ぼくはいい取材を受けたことで育てられてきた。このごろ、しみじみそんな気がしている。熱心に、誠実に、親身に、真剣に、わくわくしながら、発せられる質問と、それに対しての新鮮な答え。そして、うなずきと、新たな質問のくりかえしは、それをやってきてよかったと、つくづく思っている。取材された経験には「よろこびを含んだ肯定」がある。ぼくは、じぶんが取材をする側になったときには、相手にも、ぼくが経験した「よろこびを含んだ肯定」を味わってもらえたらいいなと思ってる。なんのメディアがないとしても、取材はおもしろい。みんなが遊びとして、「取材」をし合えばいいのにね。