稀人を大切にしてきた風土がよみがえったような

路上の熱量

 だからこそできること、印象に残りました。

 

P132

 J3(当時)プロサッカーチームFC琉球監督の金鍾成・・・彼が沖縄に「移住」して、サッカーを通じ「沖縄」と深く関わり始めてから、二年近くが経とうとしている。・・・二〇一六年にトップチームの監督に就任した。

「沖縄の歴史は我々在日コリアンと似ているところがあるのに、サッカーを指導していて、反骨心が薄い感じがするんです。こんなことを言ったら怒られますが、沖縄の人たちの感情として本土にいい感情を持っていなかったり、複雑な思いがあるのなら、県外のチームには絶対に勝つぞとか、そういう激しい闘争心のようなものです。でも、ぼくが接している若い世代だとそういう精神性がないのは当然なのかもしれません。ぼくは人生無駄にしたと思うぐらい、日本人に負けるかという反骨心ばっかりで生きてきたから」

 そう笑いながら鍾成は言った。・・・

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 現役時代の鍾成は、在日コリアンのサッカー選手の中でもとりわけ、日本への闘争心を剥き出しにしてプレーした選手だった。それは、在日コリアンサッカーの歴史そのものが「差別」との闘いの歴史と重なり合い、マイノリティである在日同胞と一体化することで存在してきたからだ。

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 鍾成は、朝鮮大学校から在日朝鮮蹴球団に入り、一九九五年にジュビロ磐田、翌九六年にコンサドーレ札幌でプレイした。・・・

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 ・・・彼がジュビロを離れる前に聞いた言葉を今でも覚えている。

北朝鮮代表とか在日のチームでやったときは、この試合で自分が死んでもいいという気持ちになりましたが、ここJリーグでは死んではいけないという気持ちがありました。プロだから、僕はジュビロのものなんだから、ここで死ななきゃいけない人間なのに、死のうとしなかったのがいけなかったのかな、と」

 ・・・当時、こうも語っていた。

「一プレーヤーとしての可能性を試したいという気持ちもありましたが、僕の目標はあくまで祖国(北朝鮮)の代表入りであり、同胞の子どもたちのためにJリーグでやるんだという気持ちでやってきた。でも、磐田を応援する日本の人たちが『キム!キム!』と声援を送ってくれる。それには心打たれるものがありました。蹴球団では日本人チームに在日のチームが勝たなきゃいけないという気持ちを優先してきた。相手がどこであろうと、そういう気持ちでやってきた。それが、今、できないんです」

 その後、コンサドーレ札幌に移籍したとき、年長者組であり人望も厚かった彼はチームのまとめ役になった。サッカーチームは在日コリアンも日本人も関係なくひとつの「社会」なのだと考え、最善をつくすことが重要だと思うようになった。それが若い世代の同胞への刺激にもなるし、メッセージにもなる。その考えは沖縄に来た今も「進化」を遂げているという。

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 沖縄在住で大阪生まれの作家、仲村清司は・・・ホームゲームを観戦しながら、チームのあり方と自分のルーツを重ね合わせ、「金鍾成という稀人を沖縄が迎えたことによって、古来、稀人を大切にしてきた風土がFC琉球によみがえった感がある」と言った。

「沖縄は移民した人たちでも〝県系人〟と呼び合うように、同胞意識が強い土地。それゆえ他府県人や他民族が入りにくい土地柄となっているが、人種がるつぼ化しているFC琉球はそういう固定観念を根底から覆したチーム。離島差別もあって県人同士でもまとまりにくいのに、目から鱗というか、意表を突かれた感じがします。在日コリアンというマイノリティがマイノリティを指導するという構図も新鮮で、沖縄のスポーツ界では史上初めてのこと。政治でやれないことがサッカーであっさり実現しているのは革命的な『事態』と言っていい。金鍾成の人柄もあるのだろうが、超えることができないと信じ込んでいた国境をやすやすと超えたのは、内地で『在日沖縄人二世』時代を生きた僕には痛快事ですね」(仲村)